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●勲章 くんしょう

AD  1.西洋

【西洋の勲章−その起源】勲章のはじまりは、ギリシア・ローマで勝利者や、戦場の勇士に与えられた常緑樹の枝葉などを編んだ冠で、アポロ神の競技の勝者におくられたローレルの冠が一番良く知られている。のちには詩人の肖像にそれを描きそえるようになったが、この場合はローレルの葉や実は人を酔わせる性質があると信じられていたので、詩人のインスピレーションと作品の不朽性のシンボルだったとみられている。 中世には、封建制度を維持するため、城主が騎士を任用する制度が発達し、主要な家来に「位」を与えた。今日の勲章はこの二つの伝統が一緒になったもので、「位」を表すものをorder(位階)といい、功績を表彰するしるしをdecoration(飾り)といった。

【イギリスの勲章】イギリスは、1348年にガーター勲章を制定したことで、世界最初の勲章国であることを自慢している。ガーター(靴下止め)勲章は、名前のごとく左下のひざの下につけられる。原則として皇族と有力な貴族と外国の君主にしか与えられない。ひざに勲章をつけたのは、中世にはズボンがなかったので、長靴下に飾りをつけて勲位を表していた名残りのように思われる。イギリスでのデコレーションの最高は、V. C(ビクトリア=クロス=ビクトリア十字章)で、それにつづいてG. C(ジョージ=クロス)を先頭に、D.S.O.・D.S.C.・C.G.M.・D.S.M.・G.M.・B.E.M.・G.C.B.・K.C.B.・C.B.・G.B.E.・K.B.E.ほかのデコレーションがあり、空軍には別のデコレーションがある。

 V.Cは、ビクトリア女王の時代に制定されたのがもとで〈敵の面前で、国に対して抜群の勇気または献身をなした者〉に与えられる。非常に厳選され、第二次世界大戦の際には179人にしか与えられていない。勲章そのものは青銅製の、制作費は4、5ペンスという貧弱なものだが、上は元帥から下は兵卒・軍医・野戦看護婦など、階級に関係なく与えられている。等級をつけないのは、イギリスのデモクラシーを最もよく象徴した勲章だといわれている。

【フランスの勲章】フランス人は、勲章だのアカデミーなどが好きな国民で、かつてこの国の勲章所有者名簿という大きな本をみたことがある。町の商店(八百屋やテーラーなど)まで勲章をもらうので、パリの盛り場で石を投げると、たいてい勲章所有者にあたるといわれている。

 フランスで一番有名なのはレジョン=ドヌールで、それを筆頭にして9種類の勲章があり、軍事に関係した功績には「軍事勲章」がある。レジョン=ドヌールはナポレオンが1802年に制定したもので、最初は一代限りの貴族の位を与える勲位だったが、共和国になってからは単なるデコレーションになった。それをやたらに出す(多いときには1年5,000個)というのが一つの政策である。これにも五つの等級があるが、ふつうはそれを表面に出さず、一様にレジョン=ドヌール勲章と呼ばれている。

 その後、安売りをやめることにして、1958年にはシュヴァリエ(5等)2,401人、オフィシェ(4等)836人、コマンドール(3等)109人に与えることになったが、その上のクラン=クロワ(1等)とクラン=オフィシェ(2等)は、やたらに出さない。しかし等級は一般にはわからないので、首相の勲章がパン屋の勲章と同じ5等だといった例は珍しくない。

【アメリカの勲章】アメリカには勲位の制度がないので、それを表す勲章はないが、軍人の勲章はワシントンの時代からあった。勲位を表さないのでデコレーションと呼ばれ、31種類あるが、それぞれの勲章には等級をつけない。

 アメリカのデコレーションの特徴は、功績にしたがって1人に数種類の勲章を出し、さらに同一の勲章を同一人に何度も出すことで、後者の場合は最初にもらった勲章のリポンないし略章に小型のカシの葉のしるしをつける。これをカシの葉章(Oak leaf luster)といって、カシの葉章という勲章があるわけではない。日本の新聞のニュースなどではよく間違える。

 終戦直後に「紫の心臓」(パープル=ハート)という映画がきたが、当時は映画をみるまでなんのことかわからなかった。これは金ぶちのハート形の勲章で、内側は紫色のプラスチック(もとは七宝)で、中央にワシントン将軍の左向きの横顔がレリーフで彫ってある。これはワシントンが1782年に制定したもので、アメリカの勲章のなかでは最も有名で、同時に最も美しいといわれており、デザイナーはエリザベス=ウィルという女性だった。

 そのほか戦時に功績のあった民間人ないし非軍人に与えられるメダルが10種類以上あって、それの最高は大統領によって贈られる「自由のメダル」(1945年制定)であるが、1963年故ケネディ大統領のとき、平和時の国防・文化、その他の公私の尽力が顕著な者にも与えられるようになった。

【ソ連の勲章】ソ連邦では、はじめは赤旗>勲章・労働赤旗勲章を制定していた。しかし、のちには、レーニン勲章を最高勲章として、第二次世界大戦後には、いくつかの種類の勲章と記章を制定した。初期のものは連邦独特のものであったが、そののちに制定されたものは、ヨーロッパのものとくらべて、大してかわらないものである。

【勲章の本】私のあつめた勲章の本で最も立派なのは、1909年に出た『レジョン・ドヌール、1802〜1900』という34×35センチ、396ページという大きな本で、背中を赤いモロッコ革で装幀した豪華本である。この本にははじめに中世以来のフランスの勲章の歴史が出ている。簡単な本では、1937年に出た『レジョン・ドヌール』というのがある。

 イギリスのV.CとG.Cの本は上述したが、イギリスの勲章の初期からの全史は『女王の騎士道の位階』(イヴァン・テ・ビア著、1964)というくわしい本がある。アメリカの勲章の本では1964年にE.ケリガンの『アメリカ戦争メダル勲章』というのが出た。

 ヨーロッパ全体、あるいは世界各国の勲章の歴史の本で、現在手にはいるものではチェコスロブァキアのワスラウ=メリカという勲章収集家の『勲章とデコレーション』の英語訳(1967)がある。大型本で、初期から現在までの歴史と、ヨーロッパ以外の国々を含む195ページ(大部分がカラー)の実物に近い大きさの写真が出ている。これだけ完璧な内容の本は英語では最初だと、出版社ではいっているが、ロバート=ウアーリックの『昔と現在のすべての国家の常人ならびに軍人の勲章とデコレーション』(米、1965)も、カラーの図版にそれぞれ説明のはいった、A4判ぐらいの325ページという専門書である。簡単なポケット本では『イギリスならびにヨーロッパの勲章・メダル・デコレーション』(英、1967)に、ヨーロッパ諸国の450種の勲章・メダル・デコレーションのカラー写真と、解説が出てくる。そのほかベルリンで出版された『カワーによるヨーロッパの勲章ハンドブック』(1966、B6版、239ページ)があり、旧ドイツ帝国の勲章を解説した『ドイツ&オーストリア帝国の勲章とメダルのリボン』(英、1974)という全カラー挿画の新刊もある。

〔参考文献〕藤樫準二著『日本の勲章』1963

2.日本

【勲章の誕生】勲章のデザインについて、古い「大給亀屋公伝」によると、大政奉還後の1871年(明治4)に、左院において「貫牌ノ制」が初めて議せらる、とある。翌々年に、議官細川潤次郎ら5人に対し、「メダイユ取調御用掛」が命ぜられた。このなかには、陸軍奉行であった大給恒が、調査のリーダー格として入り、奮闘している。ことに、大給氏は陸軍奉行時代に、フランスの士官を通じて賞牌制度を熱心に調査し、幕府のフランス使節、向山隼人正の建議と相前後して建白、それに伊藤博文の建言によって勲章は実現したものであった。大給氏は美術的造詣も深く、自ら「旭日章」の図案までつくったほどであった。しかし、七宝のつけ方がなかなかうまくいかず、幕府時代の刀剣金具師で、七宝焼の家元であった平田春行に命じて苦心を重ねた結果、ようやく満足すべきものができ上がった。綬の織目に水紋を織り出したのは、杉村清吉氏の発明によるもので、わが国の勲章所大給恒・平田春行・杉村清吉の3人の合作ということになっている。

【勲章の歴史】わが国の勲章制度も「勲等」そのものの制度は古い。中古時代の大宝令によって定められた一つの恩賞階級で、勲功によって賜ったものである。大宝令には勲位と文位の2種あって、文位とは位階の別名のことで、勲位に対称する場合にのみ文位と称したものである。勲等の次第は軍防令に属し、勲一等から勲十二等まであって、武勲功績のあった者に賜るばかりでなく、神社を崇び、孝悌・力田の行為者を賞する場合にも、この勲章が援けられた。勲一等(正三位に相等)・勲二等(従三位)・勲三等(正四位)・勲四等(従四位)・勲五等(正五位)・勲六等(従五位)以上を勅授。勲七等(正六位に相当)・勲八等(従六位)・勲九等(正七位)・勲十一等(正八位)・勲十二等(従八位)以上を奉授。

 この勲等が、現行の勲等の起源であると、一般的にはみなされている。勲位を授けたことは、713年(和銅6)に隼人を征して功のあった将軍十卒に80余人に授げたことが記録してある。このほか大宝令に、国家に勲功をたてた者に対し「田」を賜り、これを「功田」と称した。功田に4段階あって、大功は世々これを伝え、上功は三世伝え・中功は二世伝え・下功は子に伝えとある。

【最初の勲章】わが国で一番古い勲章といえば、1867年(慶応3)の春、薩摩藩が、パリの第5回万国博覧会でばらまいた薩摩琉球国の勲章ということになっている。この博覧会には江戸幕府側も日本の権威を宣揚するため、将軍徳川慶喜の令弟徳川民部大輔昭武を将軍名代として派遣した。これに対して、薩摩藩でも代表を出して開会式の式典に参列し、その当目、密かにつくった美しい功牌(勲章)を、ナポレオン3世をはじめ政府要路の人々に贈与した。それが意外にも好評を博し、貿易上に新機軸を開いたので、幕府側は非常に狼狽したほどであった。この功牌がいわゆる薩摩琉球国の勲章と称され、わが勲章史上最古のものと伝えられている。星形の焼物で、中央の丸に十字は島津家の定紋で、その星のあいだに「薩摩琉球国」のち字を藍色で配し、朱色の綬をつけ、裏には「贈文官 兼武官」と刻んである。現在も鹿児島市磯庭園(旧島津家別邸)の尚古集成館に保存陳列されている。薩摩藩のこうした勲章計画に先立って、幕府から駐仏公使として派遣されていた向山隼人正栄五郎(号を黄村)が、パリ外交界における勲章が、いかに大きな価値と効果をもたらしているのかを早くも痛感して、同年3月に幕府に対し、次の建白書を送っていたそうである。〈西洋諸国ニオイテハ軍陣戦功ハモチロン、凡テノ功労者之モノヲ賞シ候為ト、相与候功牌有之(メダイユヌデコラショント唱ヘ)候テ、金銀宝石ニテ製造イタシ、衣領間ニ相懸ケ候モノ残右ハ聊の品ニハ候ヘドモ、当人ニ取候テハ、無上ノ栄ニ相成、却テ千金ノ賞ヨリ重ク候趣ニ有之、右ハ全ク其ノ国限リノ義ニモ無之、他国帝王又ハ其臣民迄モ、功労ノシルシトシテ差贈候風習ニテ(中略)、交際上第一ノ要義ニ相聞候〉。

 さらに、この建白書に図案を添えて、製造方をフランスの職人に申し付けられたいと提言してあった。図案は旭日章の下に、昇り龍と降り龍が葵の紋を抱き合い、旭日と双龍は金色、葵は黒字に白、それに白と紫色の綬を配したすこぶる美麗なものであったらしい。さすがに向山は外交官として先見の明があったわけである。

 そのころ幕府の陸軍においても、十数名のフランス士官を招聘して、フランス式の調練を行っていたが、この士官たちの胸間を飾っていた勲章が、当時の陸軍奉行松平縫殿頭の目にもとまった。西洋諸国に勲章のあることを知った縫殿頭は、種々調査研究させて、これを幕府に対して建白した。向山の建白に相前後してこれを受け取った幕府においても、功牌の必要を認め製作の議もおこなったのであるが、徳川幕府の崩壊、大政奉還などの歴史的転換期にあたり、実現をみるにいたらなかった。

【勲章制度の創設】明治維新でお流れになっていた勲章問題は、1873年(明治4)9月2日、ようやく維新の大業もなった新政府が左院に対し、次の通り宣達して、栄典制度が始まる。〈凡人ノ功績勲労アルモノ、衆庶ノ共ニ欽尚スヘキ所ナリ。依テ之ヲ嘉奨シ、位爵ヲ用テ賞典トシ、等級ニ応シ賞牌ヲ与ヘ、以テ其功勲ヲ表著セシメント欲ス。宜シク其可否ヲ審議シ、其体裁ヲ具備シテ上陳スヘシ〉

 これに対し、左院は1875年1月4日、〈朝廷褒賞、典未ダ備ハラザルヲ以テ、宜シク速ニ賞功給牌ノ一局ヲ設クヘク、否ラザレバ特ニ専任ノ職員ヲ置カルヘシ〉。との旨を上申した。政府はこの建議にもとづいて、同年3月、二等議官細川潤次郎以下5人の「メダイユ取調御用掛」を任命。それ以来、この係は内外の資料を収集し、勲章制度の成案につとめた。取調御用掛のなかには、松平乗謨が「大給恒」と改名し、三等議官として参加していた。このような経緯ののち、現在の勲章制度は始まったのであるが、まず勲一等旭日大綬賞を筆頭とする旭日章の制度が1875年に、ついで大勲位菊花大綬賞が1877年(明治10)に生まれた。そして1888年には、大勲位菊花章頸飾・勲一等旭日桐花大綬章が設けられ、宝冠章(六等以下八等までは1896年から)・瑞宝章の制も生まれるなど、徐々にその体系を整えた。

 戦没や、西南戦争における勲功者に対する論功行賞としての叙勲が行われるだけで、運用上の細則は決められていなかった。その後、叙勲条例の制定と勲章と種類の増設によるその改正、および皇族叙勲内則や外国人叙勲内則などが定められて、戦争前まで実施されたのである。なお、日清戦争などの論功行賞は、そのつど実施されていた。

【栄典制度の意床】日本では、国家に勲績功労ある者を褒賞するため、大日本帝国憲法では〈天皇は爵位勲章及びその他の栄典を授与す〉と規定して、栄典制度を確立していたものであった。そして数十年間にわたり、授爵・位階・勲章などの栄典を、つつがなく運営してきた。

 ところが敗戦によって、新憲法下では天皇の国事行為中に、単に「栄典を授与すること」とあるだけで、さらに「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する」という、まことに淋しい制度に変わってしまった。これは、授爵すなわち華族制度の全廃と、位階は生存者に対する叙位を廃して、単に故人にのみ授与するという改革のためである。したがって、現在の栄典制度といえば、勲章を中心に賜杯と褒章だけで、位階はあってなきに等しく、きわめて小規模な制度にすぎないのである。

 旧憲法においては、栄典者−帯勲著に対する特権とか優遇があった。皇室でもいろいろと歓待されていた。大勲位から勲八等まで、その等級によって異なるが、宮中での祭典をはじめ四大節の祝宴・観桜・観菊会などである。葬儀に際しては、勅使・貨幣帛・祭粢料の下賜、さらに軍隊から儀仗兵の派遣まであった。

 これが今日の叙勲者に対しては、憲法の「勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない」という精神にのっとり、特権もさることながら、優遇もされていない。また、文化勲章の受章者に対しては、とくに陛下がお茶の会を催しになられる程度であった。勲一等以上の者といえども、新年祝賀の儀や皇室園遊会に必ず召されるという資格もない。ただし、勲一等以上の者と文化勲章受章者の葬儀に対しては、祭粢料として金一封を賜る程度である。そのほか叙勲されて賜謁のときに、タバコとお菓子をいただくくらいにすぎない現状で、その変化が歴然としている。

【戦後の推移−生存者叙勲の停止】戦後において、政府が栄典制度に関して最初にとった措置は、1946年(昭和21)5月の閣議決定により、生存者に対する叙位・叙勲を停止したことであった。その理由は、終戦の混乱によって従来のような叙勲の基準が適用できなくなったことと、新憲法の実施とともに、栄典制度も再検討の必要が痛感されたからである。日本国憲法の施行と同時に、世襲的栄典であった華族制度の全廃・金鵄勲章の廃止・一部の記念章や従軍記章なども廃された。その他の栄典については、従来通り存続することとしていたものの、旧憲法付属の諸制度とともに、根本的に改革を行うことが予想されていた。

 1948年、社会党の片山哲内閣が、まず栄典制度の根本的な改革について検討を始めた。これを引き継いだ芦田均内閣は「旧憲法とともに栄典制度を廃止し、新憲法にふさわしい新栄典制度」を採用する方針で、新栄典法案を第2回国会に捉出した。位階制度を廃し、勲章は一種五級の普通勲章にとどめ、その他は従来の七、八等勲章に代わる功労章、褒章に代わる善行章を認めたものである。この案は衆議院を通過したが、参議院で審議未了となる。吉田茂内閣では、講和条約の発効までは栄典制度に手をつけない方針をとり、1952年、条約の発効とともに、初めて栄典制度の再検討を着手し、同年末の第15回国会に栄典法案を提出した。このときの法案は芦田内閣案ほど改革を徹底したものではなく、位階制度を存続するほか、菊花勲章と文化勲章を存置し、普通勲章では旭日勲章一種、その階級も五級とし、ほかに「産業勲章」を新設するなど、従来の制度にいくぶん新味をつけたものであった。しかし、この案も解散により衆議院で審議未了となった。

【生存者叙勲復活への動きと国会審議】戦後は、文化勲章の授与と外国人に対する叙勲のほかは、生存者に対する叙勲を停止してきた。ところが、1953年に各地で発生した大水害に際して、挺身・救難・防災・復旧などにあたった功労者に対し、緊急に表彰する必要に迫られ、同年9月18日の閣議決定でとりあえず、現行勲章を授与する途を開いたのであった。

 さらに鳩山一郎内閣は、1955年に、褒章条例(明治14年太政官布告)を改正し、「黄綬褒章」および「紫綬褒章」を新設して、栄典制度の運用を強化拡充した。その上、同年12月には臨時栄典制度審議会を設けて栄典制度を検討、その答申にもとづいて翌年4月に法案を作成して国会に提出した。骨子は位階を廃止するほか、産業勲章を設けないこと、普通勲章を七等級とし、菊花勲章や文化勲章を存続するという案であった。第24回国会では継続審議となり、第25回国会に持ち越されたが、結局、もっと簡素化しようという意向が強く廃案となってしまった。

 石橋湛山内閣は、勲章制度を若干改廃という消極的な意図をもって法律案を準備したが、第26回国会は諸々の事情から提案されなかった。そして、岸信介内閣も石橋内閣の方針を踏襲して、法案内容に検討を加えていたが、いっこうに進展をみせなかった。それから6年もたった1962年8月28日の閣議で、河野建設大臣が話題とし、池田首相も共感、ときの総務長官が勲章調査に専念した。

【叙勲再開の閣議決定】1963年7月12日の閣議席上で、徳安長官が叙勲問題について、あらゆる階級の民間人にも出すという原則で提案説明、満場一致で賛成、ここに栄典制度の立案が18年をへて閣議で決定した。一.昭和21年5月3日の閣議決定により停止した生存者に対する叙勲を開始する。

一.叙勲は国家または公共に対し功労のある者を広く対象とするものとし、その叙勲基準は別に定める。

【記章】記章は従軍牌として制定され、最初のものは台湾征討従軍記章であり、1874年に定められたものである。従軍記章が設けられたのは、1873年(明治6)に左院が、勲章の制度とともに記章も定めるべきである、と建言したが、これにもとづいて設けたものである。その後、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦などの戦争や事変(義和団の乱など)の従軍記章がある。これは軍人・文官のほかに軍務に服した、あるいは軍務を補助した一般人にも授与された。そのほかに国家の重要な事件に関係した憲法発布記念章や即位大礼などの記念章がある。また軍人遺族や傷痍軍人に出される軍人遺族記章・軍人傷痍記章がある。

【褒章】褒章は、1881年(明治14)褒章条例によって定められた表彰制度である。学問や文化および産業の面で業績のあった人に授与される。現在は、紅緩・緑緩・藍緩・紺綬・黄綬・紫綬の種頬がある。また賜杯は、勲章にかえて授与されるときと、褒章条例にもとづき援与される場合の2種類が決められている。

〔参考文献〕総理府賞勲局監修『栄典事務の手引』1984、藤樫準二『勲章』

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