●クロムウェル
ヨーロッパ 英国 AD1599 チューダー朝
1599〜1658 革命期に活躍したイギリスの軍人・政治家。王政が倒れて共和政が成立してのち護国卿となる。東部イングランドのハンティンドンでジェントリオの家柄に生まれる(田舎のジェントリの出身)。ヘンリ8世に奉仕したトマス=クロムウェルとは遠縁のあいだ柄。母とグラマー=スクールの教師から清教主義の影響を受けたとされている。1616年ケンブリッジ大学に人ったが中退,ロンドンで法律を学んで帰郷し所領経営に従事する。1620年にロンドン商人の娘と結婚。1628〜29年ハソティンドンを代表して庶民院議員となる。チャールズ1世が議会なしの統治を断行した11年間(1629〜40)には,もっぱら地方的な事柄にかかわっていた。ただしこのころすでに熱烈ではあるが偏狭さのないピューリタン(清教徒)に成長している。1640年に短期・長期両議会が召集されると,ケンブリッジを代表する議員となる。内乱の開始は軍人クロムウェルを登場させることとなり,彼はエセックス伯の指揮下に入って戦い,1642年10月のエッジヒル(ウォリック南方)の戦闘では騎兵将校としての令名をかち得た。ときの経過とともに彼の軍事的才幹は明らかとなっていったが,早くから議会軍の弱体を痛感し,自分の属する東部連合軍のなかに清教主義を精神的きずなとし,鉄の規律で縛られた新しい軍隊(鉄騎隊)を編成,議会軍が勝利する道を開いた。1644年7月のマーストン=ムーア(ヨーク近傍)の戦いののち,ニュー=モデル(新型)軍が組織され,1645年6月彼はこれを率いてネースビーで大勝を収め,内戦の帰結を決定した。王がスコットランド軍に身を投じて以後,議会側の混乱に乗じて軍を掌握する彼の発言権は急速に増大し,政治的には独立派の指導者として革命の推進にたずさわった。王に対してはむしろ妥協的であったが,スコットランド人との密謀が露見するに及んで王の抹殺を決意。1648年8月スコットランド軍をプレストンで破ってのち,同年12月王との妥協に執着する長老派議員を追放,翌年1月議会を動かして王を裁くための高等裁判所を設置させ,その判決に従って王を処刑した(1649年1月末)。ここに一院制の共和国がイギリスのとるべき方向となったが,それ以前から一般兵士層の利益を守る平等(水平)派の勢力が台頭してきており,彼は独立派軍幹部を代表して1649年春これを武力で弾圧,そのあとで共和政の宣言が出された。さらに王党派による反革命の拠点となったアイルランドとスコットランドへの遠征を敢行,彼は1649年6月にアイルランド総督,翌年6月にスコットランド遠征軍総司令官に任じられている。目的は達成されたが,アイルランドでははなはだしい残虐行為と大規模な土地没収が行われ“クロムウェルの恨み”を残した。スコットランドの征服はブリテン島統一の実現を間近なものにしたといえる。共和政が踏み出されてからも国内政局は安定を欠き,とくに軍と議会との対立が激化,彼は動揺ののち軍の側に立って長期議会の残りかすを解散(1653年4月),新しく召集された議会が改革の意欲を示すと,保守化しつつあった彼はこれをも解散(12月)し,その直後軍幹部の用意した成文憲法“統治章典”に則して護国卿(ロード=プロテクター)の地位についた。それは独裁政権の誕生を意味するものにほかならなかったが,その後も不穏な形勢がつづいたために,1655年8月に軍政官制度を実施,革命はついに軍事独裁にいたった。1657年2月彼を国王へという献議がなされたが,軍の反対を考慮してこれを拒否,その後も不安な情勢がつづくうちに心痛しつつ病を得て死去(1658年9月),ウェストミンスター寺院に葬られた。王政復古後にその墓があばかれて死体が絞首された。対外政策では貿易の伸長をはかって1651年に航海条令を発布,これが原因となってイギリス-オランダ戦争(1652〜54)をひきおこした。またスペインとも戦うはめとなり(1655〜58),ジャマイカを奪取している。その際カトリックのフランスと同盟する柔軟さを示した。彼への評価としては悪人・王位横領者とする王党派的見方が久しく支配的であったが,19世紀にはその政治家的手腕,清教徒的情熱を賞賛する傾向が出てきた。今日では革命を指導した偉大な個性という見方が有力のようにみえる。〔参考文献〕浜林正夫『イギリス市民革命史』1959,未来社
今井宏『クロムウェルとピューリタン革命』1984,清水書院