50音順    検 索

●黒住教 くろずみきょう

アジア 日本 AD 

 幕末維新期には,1838年(天保9)開教した天理教,1859年(安政6)誕生した金光教などの民衆的宗教が相次いで成立・展開したが,黒住教はこれらに先駆け,1814年(文化11),備前国(岡山)今村宮の神官,黒住宗忠(くろずみむねただ)によって開教された教派神道系の新宗教である。黒住宗忠は,1780年(安永9),備前国御野郡上中野村(現岡山市上中野)の生まれ。家は代々隣村の今村宮の禰宜(ねぎ)であったが,1814年(文化9)岡山地方を襲った疫病流行のため1週間ばかりのうちに父と母を相次いで亡くし,自身も翌年11月から肺を病み,病床3年。そうしたなかで宗忠は,1814年(文化11)11月11日の冬至の日の出に,今生の別れに日拝(にっぱい)したところ,自己の生命と太陽=天照大神(あまてらすおおみかみ)が合一するという「日神(にっしん)御一体」の神秘を体験した。黒住教では,宗忠が“生き神”としての自己の使命を自覚したこの体験を「天命直授(てんめいじきじゅ)」と呼び,この日を立教の日としている。宗忠はこの天命直授の自覚のもとに,たまたま下女ミキが腹痛で苦しんでいるのを見て,日の神の陽気(息)を吹きかけて治したのをきっかけに,以後1850年(嘉永3)没するまでの30数年間,神職として奉仕するかたわら,体得した祈祷禁厭をもって人々を救い,独自な天照大神の道を説いた。

 〈天照(あまてら)す神の御心人心一つになれば生き通しなり〉〈月は入(いり)日の今いつる曙(あけぼの)に 我こそ道の始め成けれ〉(『黒住教教書』歌集)

 宗教的確信と強い使命感ももつにいたった宗忠は,その後,病気治しなどのおかげを,もっぱら天照大神の神徳によるものと説き,近隣の地主・農民層から岡山藩士のあいだにも教線を伸ばしてゆく。一方,1825年(文政8)からは千日参籠・五社参りなどはげしい修行に入り,この千日参籠中には黒住教の生活規範とされる「日々家内心得の事」7カ条を定めた。宗忠は20歳のころ,自ら神のような人間になり,広く人々を救うとの誓願をたて「家内心得の事」5カ条をつくり自らの生活規範としたが,7カ条はこれに第2条と第7条を加え,第1条〈信心の家に生れ……〉とあったのを〈神国の人に生れ……〉と改め,信者の規範としたのである。

一,神国の人に生れ常に信心なき事

一,腹を立物を苦にする事

一,己がまんしんにて人を見下す事

一,人の悪を見て己に悪心を増す事

一,無病の時家業おこたりの事

一,誠のみちに入ながら心に誠なき事

一,日々有難(ありがたき)事を取外す事

 その説く日常規範が,誠(まこと)・謙虚・勤勉・感謝など秩序を重んずる儒教的な教えに立脚していたことがうかがわれる。黒住教の教義は,〈かの天照皇太神は,一切万物を生じ給ふ大御神ゆヘ,天地のあいだ一切生(いか)し,一切何事も成就せずといふことなしに御座候〉(『黒住教教書』文集)とあるとおり,天照大神を万物の根源とし,人間はその「分心」であり,神人不二の見解に立脚,〈天照す神に任せて世の中を渡(わたら)は安き身ともなりなん〉〈神のます道の教へを本とせは若きも老もなきぞ楽しき〉(同歌集)と,神にすべてをまかせ,日々を陽気に暮らすことで個人・家族・社会の平安・繁栄が得られると教えた。宗忠はまた,〈貴賎の隔(へだて)も無き〉と人間平等の立場から,黒住教では定期的に信者の家々で会席(のちに講席)を開いたが,そこでは身分にかかわりなく先着順に着席させ,自ら説教・祈祷を行った。この会席による布教が黒住教発展の源動力となった。幕末までに20万人の信者を擁した。

 教団本部:岡山市尾上2770

 祭神:天照大神・八百万神・教祖宗忠神

 教典:『黒住教教書』(門人への書簡・信仰歌からなる)

 教勢:教会・布教所375,教師3,261人,信者16万6,090人(『宗教年鑑』昭和57年版による)

〔参考文献〕村上重良校注『民衆宗教の思想』日本思想体系67,1971,岩波書店

01