●クレムリン
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ロシア語ではクレムリで,城砦あるいは内城の意。歴史的にはロシア中世都市の中央の城壘をさし,そこには公の屋敷や,大寺院・官庁・貴族の屋敷があった。多くのクレムリンのなかで最も有名なのがモスクワのクレムリンで,それは,1713年ピョートル1世(大帝)が首都をペテル=ブルグに移すまで,モスクワ公・大公・皇帝の居城であり,ロシアの政治の中心であった。ロシア革命後,1918年モスクワが再びロシアの首都となってからは,ここにソヴィエト政府の最高機関が集められたので,クレムリンはソヴィエト政府の意味にも用いられる。モスクフのクレムリンが作られたのは,1146年のことで,北東ロシアの最初の経営者のスズダリ大公ユーリー1世ドルゴルーキー(長手公)のときである。彼は,スズダリの西方の砦として,モスクワ川とニエグリンナヤ川が合流するボロヴィツキー丘上に小さな木造の要塞を構築した。その翌年,ユーリー大公はスモレンスク討伐に功績のあったノヴゴロドーセーヴェルスキー公スヴャトスラフをここに招き,贈物を与え,豪華な正餐を催した。これが,モスクワの名が文献に見える初めである。モスクワ=クレムリンは,その後,ユーリー1世の子アレクサンドル=ネフスキ一の手によって,1156年拡張されたが,1237年モンゴル人の襲来のとき破壊された。13世紀末,モスクワはネフスキーの子ダニイルの所領となり,以後クレムリンはモスクワ公・大公・皇帝の居城となる。1339年イヴァン1世のとき,クレムリンの木柵は,かしの木の堅固な城壁にかえられ,ついで1367年,ドミトリー1世ドンスコイのとき,城壁は白い石壁となった。モンゴル支配時代,モスクワ=クレムリンは何度もモンゴル軍(キプチャク=ハン国軍)の攻撃で焼かれたが,1485〜95年には北東ロシアを統一しモンゴル人の支配から脱したイヴァン3世が,その大改築を行い,城壁は現在のような銃眼のある赤煉瓦の壁となった。壁の高さは5〜19m,厚さは3.5〜6.5mもあり,全延長は2,285mに及ぶ。クレムリンの壁には,高さ74mに達するスパスカヤ塔を初め,ニコリスカヤ塔・トロイツカヤ塔・ポロヴィツカヤ塔・ヴォドヴズヴォドナヤ塔など大小20の塔があるが,この壁に囲まれた城内には,宮殿・武器庫・寺院など種々の建物がある。寺院には,また1472〜79年にイヴァン3世がイタリアから招いた建築家フィオラヴァンテが作ったウスペンスキー寺院(これはウラディミル市の同名の寺院を模して作ったものである。ロシア正教会の総本山であり,代々のモスクワ皇帝,ペテルブルグが首都となってのちも歴代のロシア皇帝の戴冠式が行われた寺院),1484〜89年造営のプラゴヴェシチェンスキー寺院は,ピョートル大帝以前の皇帝の墓所でもあり,1505〜09年に建立されたアルハンゲリスキー寺院などがある。なお,こんにち大クレムリン宮殿と呼ばれている,ソ連邦最高会議が開かれる建物は,1838〜49年,ニコライ1世の時代に建てられたもので,武器庫は16世紀に作られ,その後宝物殿として使用された。イヴァン雷帝の鐘楼と呼ばれる建物は,1505〜08年に建てられ,教会と見張り台を兼ねている。その高さは81mもある。モスクワ市は,このクレムリンを中心に発達してきたが,1918年3月,再びロシアの首都となって以後,ここはソヴィエト政府の首脳の執務の場所や重要な会議が行われる場所となり,政府の最高諸機関もここに集められ,1937年スパスカヤ塔ら五つの塔の頂上にルビーの赤い星がつけられ,クレムリンはソ連政府の代名詞となった。今日,ソ連共産党大会や各種の国際会議,時にはバレー・オペラが上演される大会宮殿は,スターリンの時代に計画され,1961年に完成した。なお,赤の広場に面した壁は社会主義革命に殉じた人々の合同墓地になっており,スヴェルドロフ・フルンゼ・作家のゴーリキーらのほか,ドイツの女流革命家ツェトキン・日本の片山潜らもここに眠る。その壁の前方には,有名なレーニン廟がある。
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