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●クレオン

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 前651?〜前422 ペロポンネソス戦争中のアテナイの政治家。富裕な皮革業者の息子。民主政期の指導者としては最初の下層階級出身者といえる。戦争初期にペリクレス批判によって政治の舞台に登場した。前429年流行した疫病に,ペリクレスが犠牲者となったのちは,もち前の雄弁で民心を掌握し,民衆派の指導者となって極端な積極策を次々と民会に提案していった。前427年には反乱をおこして鎮圧されたミュティレーネの男子市民全員を処刑し,婦女子を奴隷にするという提案を民会で可決させたが,翌日の再審議でそれは覆された。前426年にはアリストファネスの『バビロニア人』を国家反逆罪で訴えたが失敗した。前425年,僥倖によってピュロス沖のスパクテリア島にスパルタ兵が封鎖されると,スパルタの申し出た有利な講和条件をニキアスの一派が受け入れようとするのに反対し,戦争続行を主張,ニキアスに代わってピュロス攻略に遠征し,現地の指揮官デモステネスの才覚でスパルタ兵を捕獲した。このころが彼の全盛期であり,同盟国の貢納金を一挙に倍増する一方では民衆法廷の陪審員の日当を増額し,アテナイ帝国主義に徹したのである。前422年,スパルタの将軍でブラシダスに奪われたトラキア地方を奪回するため,指揮官に選ばれて出征したが,アンフィポリスの戦いに敗れ,戦死した。彼の死後アテナイではニキアスなどのハト派が勢力を得,ニキアスの和約が締結され,ペロポンネソス戦争は一時中断することになった。今日一般にクレオンを粗暴なデマゴーグ(扇動政治家)と断じ,戦争犯罪者とみなすが,これは大いにトゥキディデスおよびアリストファネスの責任であるとともに,アテナイ民主政賛美者のつくり出したスケープ=ゴートであるといえなくもない。