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●クルド

アジア イラン・イスラム共和国 AD 

【地理・言語・宗教】イラン・トルコ・イラクおよびシリアにまたがる地域に居住する山岳遊牧民。東は,イランのケルマンシャハから,北はトルコのエルゼルムおよびカルス,一部ソ連領アルメニアを含み,西部はビルジクにまでいたる範囲を便宜上クルディスタンと呼ぶ。しかし,この地域には多数の民族が居住し,もとよりなんら完結した政治的統合体を意味しない。クルド族は,インド=ヨーロッパ系のペルシア語に近い言語を用い,それは北部方言のキルマンジーと南部方言のクルディーに分類できる。彼らの宗教は,イスラーム教であるが,過半数は多数派のスンナ派に属し,他はシーア派である。このため,シーア派を国教とするイランと対立関係にあり,両者を円滑に統合する障害となっている。推定人口は約700万人である。

【歴史】クルド人は,前2000年から前1000年ごろに中近東に侵入してきたイラン系のメディア人と,土着のグティ人の混血人種に起源をもつ。歴史的に大帝国(マケドニア・ローマ・パルチア・ビザンティン・トルコ・ペルシアなど)に囲まれた位置にあったが,いずれの帝国にも完全に吸収されることなく,独立の地位を保った。1514年,オスマン朝のスルタン,セリム1世(1520没)が,クルディスターン地方をサファヴィー朝のシャー=イスマイル(1524没)から奪取したとき,同地方を統轄する官職が設置された。さらに1639年,エルズルムの和議が締結され,両帝国間に国境が画定された結果,広範にクルド族が居住する地域が人為的に分割されることになった。クルド族の歴史を通じて,その好戦的性格を特徴としたが,19世紀にいたるまで,略奪と部族問題への内政不干渉を条件に,トルコ・イランの両帝国に仕えてきた。しかし1877年,トルコが露土戦争に敗北を喫したのを契機として,クルド族を統合する動きがおこった。この動きは,1880年,シェイフ=オベイドッラーによって指導された反乱において明白になった。この反乱は鎮定されたが,クルド族を統合する最初の意識的運動として重要である。今世紀に入って,セーブル条約(1920年8月)において,クルド族の独立を約束する項目が認められたが,民族的統一をめざし,分離運動を嫌うケマル=アタテュルク(1938没)とレザー=シャー(1941退位)の反対によって実現しなかった。しかし,クルド人知識人を中心とするクルディスターンの独立に対する願望は根強く,メハーバードを拠点として独立運動が展開された。ソヴィエト連邦が,指導者カーズィー=ムハンマドを支援した結果,1945年,実質的にクルド族の独立が宣言された。これに対して,イラン国内居住のクルド人からは積極的な援助を獲得できずに,結局失敗に終わった。しかし,イラクに居住するバルザーニー族がこれを支援した。パルザーニー族は,イラク国内のクルド族の独立をめぐって中央政府と対立しており,この後も,1964年から10年以上の長きにわたって抗争をつづけた。一方,イランではイスラーム革命中,新憲法の批准をめぐって,新たに独立への動きがあったが鎮圧された。

【社会・経済】山岳遊牧民といっても,年中移動をつづける遊牧民とは異なり,クルド族の多くは平地の定住者である。彼らの多くは丘陵地で耕作を行ったり,羊や山羊等の家畜を飼育することによって,バターやチーズを生産する。家畜の移動については,夏期を冷涼な高地で,冬期は温暖な麓の定着村で過ごす。好戦的で歴史上勇猛な戦士として知られ,中央権力から独立する傾向をもっていた。しかし,この傾向をクルド族全体の民族意識の表現と解すべきではなく,彼らの行動の単位はあくまで部族であり,さまざまな運動に参加するさい,部族長の命令に従った。同様に,クルド農民のあいだにクルド族全体の民族意識は稀薄である。クルディスターンは,イランの経済と密接に結びついており,たとえば同地方の主要作物であるタバコの市場は,イラン国内である。このように,クルド族に独立の願望が存在する一方,分断されたそれぞれの国の社会・経済・政治組織に対する依存関係があることも事実で,問題を複雑にしている。