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●クリュニーの改革運動 クリュニーのかいかくうんどう

ヨーロッパ フランス共和国 AD 

 10,11世紀フランス,ブルゴーニュのクリュニー修道院と,ロートリンゲン(ロレーヌ)のゴルツェ修道院を中核に推進された西欧修道院の刷新・復興の運動。

【起源】フランク=カロリング帝国の教会政策に遡る。カール大帝は「聖ベネディクトゥス会則」を国内修道院にひろめる政策をとり,この政策はその息子ルートヴィヒ敬虔帝に受け継がれ,アニャーヌのベネディクトゥスの指導のもとに同会則の厳格な遵守がはかられた。カロリング帝国が分裂・崩壊していった9世紀後半から約1世紀間は,ノルマン人・マジャール人・サラセン人などの攻撃や掠奪によって修道院は衰退し,また世俗領主が教会や修道院を私有する慣習がひろまり,修道院の規律が弛緩した。こうした私有教会権利を要求する世俗諸侯の干渉や,聖職者諸侯の権力の出現によって生じた修道院の世俗化に対する改革運動が,アキテーヌ公ギョーム1世の援助により,909年に設立されたクリュニー修道院におこった。

【改革】その意図は,修道院経済の改革・教皇の保護への修道院の服属・修道士の厳格な育成と修道院長への服従にむけられた。クリュニー初代院長ベルノー(在任910〜926)が着手した改革は,「聖ペネディクトゥス会則」の遵守で,第2代オドー(在任926〜945)は,共同体としての修道院における修道士の職務組織と典礼を整備,第5代オディロー(在任994〜1048ごろ)のもとで,クリュニーに属するブルゴーニュ・プロヴァンス・オーヴェルニュ・ガスコーニュ修道院・小院・所領を一括して教皇の保護下に置き,国王・司教・伯などの従属からの自由を得る。第4代マイヨール院長(在任943〜994)が没したとき35であったクリュニー所属の修道院は,オディローの時代には67を数えた。クリュニーによって創立され,あるいは改革された各修道院はクリュニーの慣習と規律を受け入れ,その修道院長はクリュニーの院長により任命され,修道士もクリュニーの院長に服従した。教皇を頂点として,クリュニー傘下の修道院は中央集権的な強大な団体(修族)に組織され,ヨーロッパ最初の修道会(オルドー)が創設された。12世紀初めクリュニー所属の修道院は,その大半がフランスに属したが1,000を越えた。もう一つの改革の中核は,ロートリンゲン地方のナミュール近くのブローニュ修道院とメッス司教区のゴルツェ修道院で,とくに934年に始まるゴルツェの改革の影響はトゥール・ヴェルダン・リエージュ・トリアーなどの司教区や,スタブロ=マルメディ修道院に及んだ。ゴルツェの改革で指導的役割を演じたのは修道士でなく,メッス司教アダルペロー1世で,修道院長の自由選挙のほか司教権を侵すような権限はほとんど認められなかった。ロートリンゲンの改革においてほぼ共通したのは,世俗諸侯や司教による改革の促進,修道士の反世俗的な厳しい禁欲主義であって,クリュニー派のような修道院の連合体を形成せず,また荘厳な典礼が整備されることもなかった。

【影響】改革は,1069年クリュニー派修道院の組織と,典礼を手本にしたドイツ,シュヴァーベンのヒルサウ修道院によって推進され,約150の修道院がクリュニーにならって強固な連合体を構成した。なおクリュニー修道院は,グレゴリウス改革の源泉で,かつその推進者であったとする旧来の見解は,クリュニーが,この改革の支柱である聖職者叙任権闘争に直接介入しなかったことから最近では否定的であるが,聖職売買聖職者妻帯の除去による教会の浄化という点では,クリュニーと改革教皇側とは軌を一にした。

〔参考文献〕今野國雄『修道院』1981,岩波新書

渡部治雄「クリュニー修道院改革史研究の問題点」歴史32,1966,東北大

堀米庸三「グレゴリウス改革と叙任権闘争」『岩渡講座世界歴史10』1970