●クリミア戦争 クリミアせんそう
NIS諸国 ロシア連邦 AD1853 ロシア帝国
1853〜56 ロシアとオスマン=トルコは,17世紀より断続的に戦争を行っていたが,18世紀の半ばからは前者の軍事的優位が明らかとなり,その南下政策が進められた。しかしながら,19世紀に入り“瀕死の病人”にたとえられるようになったトルコの処理問題が,西欧列強の利害関心の的になるにおよび(東方問題の発生),ロシア−トルコ間の衝突はそれのみにとどまらず,列強をもまきこんだ国際紛争の火種となるにいたった。かくして1853年より始まったロシア−トルコ戦争に翌年よりイギリス・フランスがトルコ側に立って参戦し(1855年からはサルデニャもこれに加担),黒海北岸のクリミア半島を中心に戦われたのがクリミア戦争である。【開戦と経過】ロシア−トルコ戦争の引き金となったのは,いわゆる聖地管理権問題である。トルコ領内にあるキリスト教徒の聖地イェルサレムの管理権をめぐり,1852年,フランスがカトリック教徒のためにこの権利を得ると,1853年,ニコライ1世のロシア(ギリシア正教)とナポレオン3世のフランス(ローマ=カトリック)の対立が激化した。このとき,ロシアはギリシア正教徒の保護を口実にトルコ全土に干渉する権利を要求し,トルコの宗主下にあったモルダヴィア・ワラキアの両公国へと兵を進めた。これに対し,イギリス・フランスの後押しを受けたトルコは,ロシアの圧力に屈せず,1853年10月対露宣戦布告に踏み切った。当初,戦争に加わらなかったイギリス・フランスも11月に,黒海岸のシノペでトルコ艦隊がロシア艦隊に全滅させられたのを契機に1854年3月参戦へと腰をあげた。1855年1月にはサルデニャもロシアに宣戦した。プロイセンとオーストリアは中立をとった。こうして始まった戦争はオーストリアの強硬な要求により,ロシア軍がモルダヴィア・ワラキアから撤退したため,もっぱら黒海・カフカス方面で戦われることとなった。海軍力においてロシアに優越するイギリス・フランスは,1854年9月トルコ軍をも含め6万の大軍をクリミア半島に上陸させ,セヴァストニポリ要塞の奪取を図った。これに対し,ロシア側はセヴァスト=ポリの港口に自艦を沈めて連合国艦隊の突入をはばむとともに,要塞の防備を強化して上陸軍を迎え撃った。歴史上最初の近代的陣地戦といわれるセヴァスト=ポリ包囲戦の始まりである。コレラと厳冬のなか,11カ月の長きにわたってつづけられた包囲戦は,11万8,000名の戦死者を数えるという悲惨なものであった。このあいだの戦闘のありさまについては,当時ロシア軍の一員として陣中にあったトルストイの『セヴァスト=ポリ物語』に生々しく描かれている。連合軍は住民をも含めた守備軍のしつような抵抗に苦しみつつ,1855年秋,ついに要塞の占領に成功した。かくして戦争の帰趨が明らかとなるに及び,翌年初めよりオーストリア・プロイセンが調停に立っての講和交渉が始まり,3月30日のパリ条約の締結によって戦争は終わりを告げた。
【結果】戦争の直接の結果たるパリ条約は,ロシアに黒海における艦隊の保有を禁ずるとともに,ボスフォラス・ダーダネルス両海峡をすべての国の軍艦に対して閉鎮し,黒海の中立化を定めた。ロシアはドナウ方面では,ベッサラビアの南部を失い(モルダヴィアに併合),トルコ領内のギリシア正教徒に対する特権的な保護権も奪われることとなった。このためヨーロッパ国際関係におけるロシアの威信は大いに失墜し,代わってフランスのナポレオン3世の声望が頂点に達した。さらに中途より戦争に参加したサルデニャがイタリア統一を進める上での重要な礎石がおかれた。一方,敗北はロシア帝国に対して大きな打撃を与えるとともに,その社会的・経済的後進性を痛感させた。これが原因となって戦争の際中,ニコライ1世に代わって新たにツァーリとなったアレクサンドル2世のもと,農奴解放をはじめとする一連の重要な内政改革が行われることとなったのである。