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●クライシュ族 クライシュぞく

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 イスラーム勃興期,メッカに住んでいたアラブ部族。イスラームの預言者ムハンマドはこの部族の出身。ムハンマドの11代前の祖フィフルの綽名をクライシュといい,この人物の子孫と自己認識していた人々がクライシュ部族員である。クライシュの3代前のキナーナを名祖とする集団をキナーナ部族というが,クライシュ部族キナーナ大部族の一支族ということになる。アラブ人は一般に,北アラブと南アラブに分かれるがキナーナ部族は全体として北アラブに属する。キナーナ部族に属する諸集団は,アラビア半島の西側,紅海に沿った海岸や山地(ヒジャーブ地方)に住んでいた。クライシュの子孫は,当初はとくにまとまった集団を形づくっていたわけではない。ムハンマドの5代前の祖クサイイが,メッカの先住の民を追放してそこの支配権を握ったとき,彼は自分の身内をメッカに集めてそこに住まわせた。このときの彼の身内がクライシュ部族となるのである。メッカに定住したクライシュ部族の人々は,近隣の遊牧民やカーバ神殿に巡礼に来る人々相手の商売をしたりしていた。ムハンマドの3代前の祖ハーシムの時代から,クライシュ部族の人々は隊商を組織して,シリア・イラク・南アラビア・エチオピアにまででかけて取引をする国際商人に成長した。遠い外国の取引先の支配者から交易の許可を得ること,その取引先にいたるアラビア半島内の交通路上の遊牧民から隊商の安全保障を得ることに,ハーシムと彼の同世代人は成功したのであった。またムハンマドの祖父アブドゥル=ムッタリブの時代,クライシュ部族は,当時南アラビアを支配していたエチオピア人の進攻からメッカの聖地をまもった。かくして,5世紀の中ごろから,彼らは聖地メッカとカーバ神殿の守護者として,また国際商人として大発展した。ムハンマドはクライシュ部族の高度成長期に生まれ,育った。クライシュ部族の名門の子であった彼は,父母をはやく失い,貧しい孤児として育った。それだけに,厳しい商戦に明け暮れ,その結果として貧富の差の著しいクライシュ部族社会に,信仰という観点から批判を加えた。610年代の彼の預言者としての活動は,クライシュ部族の社会では大問題であった。当時のメッカのクライシュ部族社会の総人口は1万人程度であったと推定される。クライシュの子息はその半数程度で,クライシュ部族の娘の他部族出身の婿やその子孫といった父系ではクライシュに血がつながらない人,クライシュ部族の人に保護されて居ついた人,解放奴隷・奴隷といった雑多な人が半数程度であった。このうちムハンマドの信仰を受け入れたのは200人足らずで,上記のすべての種類の人を含んでいた。この200人の新興宗教運動を,クライシュ部族社会の大部分の人は白眼視し,露骨に迫害した。当時,この社会には族長とか氏族長会議のような統治機関は存在せず,迫害は個々の信徒に対する身近な親族によるそれであった。622年にムハンマドとその仲間はメッカを棄ててメディナに移住した。クライシュ部族の人々はメディナに拠ったムハンマドの勢力と,3度激しく戦ったが,勝利にはいたらなかった。628年,クライシュ部族はムハンマドとフダイビアの和議を結んだが,この直後からイスラームへの改宗者が続出した。630年,ムハンマドが1万の軍を率いてメッカに進攻したとき,それに抵抗した者は極く少数で,ほかはすべてムハンマドとイスラームを受け入れた。ムハンマドの死後,イスラームの勢カはアラビア半島の大部分を征服するが,その征服戦の指揮官の大部分は,初期の信徒であれ,628年以降の改宗者であれ,クライシュ部族の人である。歴代の正統カリフもクライシュ部族の人であり,ウマイヤ朝のウマイヤ家も,アッバース朝のアッバース家も,シーア派のイマームのアリー家もみなクライシュ部族の一部である。このように,ムハンマドの死後,今日まで,クライシュ部族はイスラーム社会のなかで特別な意味をもっている。