●グユク=ハン
アジア モンゴル国 AD1206 モンゴル帝国
1206〜48(在位1246〜48)モンゴル帝国第3代の大汗。廟号は定宗。オゴタイ=ハン(太宗)の嫡長子。1233年,諸王とともに遼東の蒲鮮万奴を討ち,1235年からはバトゥ(抜都)のロシア遠征に参加してキエフ侯国平定に貢献,1239年にはモンゲ(憲宗)とともに南ロシアのカンサスを攻撃した。しかし,この遠征中にパトゥとのあいだに不和を生じ,1241年オゴタイ=ハン没後の後継者推戴に際し,その反対を受けた。その後,監国にあたっていた母トゥラキナの策謀により,1246年のクリルタイで,バトゥの出席をみぬままに即位した。このバトゥの不承認は,やがてモンゴル帝国分裂の最も根深い原因となるのである。グユクは,即位すると直ちに,オゴタイ=ハンの末年からトゥラキナの監国時代にかけて弛緩していた綱紀を粛正し,財政を独占し私腹をこやしていたオルターク商人出身のアブドゥル=ラフマーンを追放処分した。また,オゴタイ=ハン時代の宰相であったウイグル人田鎮海やホラズム人マフムード=ヤラワジを再登用し,さらに諸王・公主らの不正行為を糾弾して,中央政府の威信回復に努力した。対外的には,クリルタイの決議に従って,南宋に対する攻撃の続行,高麗における反抗運動の鎮圧,さらにヨーロッパ遠征の再挙すら推進しようとした。しかし,病弱のため在位3年で没した。それは,自己の所領地エミル河畔のウルスに帰還するおりから,バトゥ譴責の途上でのことであった。