●クーファ
アジア イラク共和国 AD
イラク共和国のサワード地方,カルバラー州にある古都。アラビア語では「円い砂丘」を意味するが,これは後世の命名でその名の由来は不詳。ナバタイ語の「赤い砂」からきたという説もある。バスラにつぐイスラーム第2の軍事都市(ミスル)。638/639年,カリフ,ウマル1世の命によりイラク総督サード=ブン=アビーワッカースがユーフラテス河西岸に建設した。ウマル1世のクーファ建設の目的は,バスラとともに東方地域の軍事基地の設置の必要性のほかに,アラブ諸族の分散を防止して,彼らを統制しようとしたことにあった。このため,メディナとの交通が容易な砂漠とサワードとの接点がその地に選出された。後世のイスラーム都市の構造的特徴になるように,市の中心にはモスクと隣接して総督の居城アルカスルが建設され,そこから放射状に15の大路(幅は約22m)が外にむかってつくられた。この大路に沿って各アラブ部族の居住地が指定され,アラブは系図に従って7部に分けられ,それぞれの区域に住んだ。しかし,新移住者の増大や,ウマイヤ朝になって総督のジヤード=ブン=アビーヒが各部族集団を人為的に再編成したように,居住地と住民は時代によって変化した。人口は新移住者や非アラブ=イスラーム教徒(マワーリー)の流入で増加をみたが,正統カリフ時代の末期で約12万人,ウマイヤ朝初期で14万人,中期で20万人くらいであったと推定される。市内は直径2km以内にひろがり,城壁と濠はアッバース朝になって初めてつくられた。649年以降,バスラがホラーサーン征服の主要な基地になるに及び,クーファはアゼルバイジャン方面への基地となり,しだいに軍事基地としてよりもイラクの政治・文化的中心地としての性格を濃くしていった。大征服が停滞し,アラブ各集団間の経済的格差が増大したため,ウスマーンの治世の末期,市民生活が混乱し,ウスマーンとその総督の退陣を要求する運動が発生した。アリーのカリフ就任を支持した市民は,駱駝の戦いにアリーに従軍し,ついでアリーが当市を首都とするや,ムーアウィヤとの戦いに参加した。これに従軍した者の一部は,ハワーリジュ派となった。クーファは,アリーとの関係からウマイヤ朝成立後,シーア派運動の拠点となり,以後,アッバース朝時代になってもそれは継続した。671年のフジュルの殉教,680年のフサインの殉教,685〜687年のムフタールの乱,739年のザイドの乱,744年のアブド=アッラーフの乱がウマイヤ朝時代のおもなシーア派運動であり,814年のイブン=タバータバーの乱,864年のヤフヤー=ブン=ウマルの乱がアッバース朝時代のそれであった。一方,当市には,アッバース朝革命の推進本部が置かれ,749年,アブー=アルアッバースは革命成就宣言(カリフ宣言)をここで行った。バグダードが建設されるまでの数年間,アッバース朝政府は,当市をはじめ,ほかの数市を首都としていた。バグダードの建設後,政治的重要性を失い,10世紀のカルマト派の反乱や相次ぐ遊牧民の略奪で人口は減少し,同時に都市としての景観も失われた。当市を訪れた二人の大旅行家,12世紀末のイブン=ジュバイルと14世紀中葉のイブン=バットゥータは,田舎の小さな町に変じてしまったクーファの姿を伝えている。政治的重要性を失ったあとも,クーファはバスラとともに3世紀のあいだ,文化の中心として存続した。とくに,イスラーム諸学の発生と発展した場の一つとしての役割は大きい。ウマイヤ朝時代,当市にイブン=マスウードを祖とする法学(フィクフ),ムジャーリドを祖とするコーラン解釈学(タフスィール),ムハンマド=ブン=アルカルビーを代表とする歴史学などが発生し,アッバース朝時代になってそれらは当市の中心的学者によって体系化された。法学のアブー=ハニーファとアブー=ユースフ,歴史家のアブー=ミフナフとイブン=アルカルビーがこれらの学者である。また,アルキサーイーを開祖とするアラビア語文法学は,バスラのそれと2大学派を形成した。なお,アラビア語の一書体クーファ体は当市に由来する。