●国造 くにのみやつこ
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上代日本の地方豪族。氏姓古代には地域を支配する地方官。律令古代には令制1国の祭祀を中心に関与する地方神祇官。くにつこと訓むという説もある。【国】もともと,日本列島上に形成されてきた,原初的な古代政権の支配する政治的領域を「くに」と称していたと認められるが,それらが大和国家に糾合されるさいに県主として位置づけられていたが,国土統一支配がより強力になり,広範に及ぶようになると,「くに」の概念もしだいに拡大し,広域を意味するようになる。毛野国・美濃国・山背国・紀国・吉備国・出雲国・筑紫国などというのがその著名なものである。大和国家の新しい地方制度として,その国という行政域が設定されるようになる。
【国造の成立】その国域を支配するものとして,その地方で最も有力な豪族が国造に任命されたと考えられる。当然県主の有力なものがその任にあてられた場合も多く,旧小国君長としての性格を継受していて,行政のほかに政祀の権威も有していた。しかし県主時代には大和国家の支配域に属していなかった地域では,まったく県主の経歴をもたない豪族が国造に就任したであろうし,稀には中央から派遣された形で国造になったものもあったかもしれない。県主制のなかったところでは,制度的にも実情としても国造単層であったが,県主のいるところに設定された国造は,現実には県主の上に重層的に置かれた形になるので,当初は広域を支配する国造がいくつかの県主を勢力下に置いて,その地方を支配しているような,二重組織的形態を示したと考えられる。氏姓時代の地方制度を「国県制」ととらえる学説があるのは,このためである。その創設の段階は,伴造制の整備されることと相関関係があると認められる。主という首長性の強い呼称をもつ県主に対し,造という奉行官司性を表す職名をもつ両者は,国域を支配する国造,職務集団を統率する伴造という相まつ形で,応神・仁徳朝ごろの国勢の発展充実期に始まったと考えられる。「国造本紀」に応神朝設置と伝える国造が多いのも,なんらかの意味があるのかもしれない。
【職掌と消長】雄略朝ころにも一つの整備期があったらしい国造の職掌は,総合的にいえば国域の支配であるが,子女を舎人・靱負(ゆげい)・采女などとして中央に出仕させたり,特産物・馬・兵器など供出したり,物品の製作やその費用の負担をしたり,部民や屯倉を管理する伴造を兼務したり,大王家や中央豪族の地方巡行に従い接待し貢納したり,いわゆる国造軍をひきいて部内の軍事警察の任務を行い,必要に応じ外征にも参加したりする職務をもっていた。6世紀には,北は現在の宮城県南部から,南は九州地方まで全国的に国造制はいきわたり,最終的には百数十の国造がいたが,しだいに大王家に連なる系譜を帯びるようになる。首長性の強い臣・君(公)の姓をもつ者と,伴造性の強い連・直(あたい)の姓をもつ者とがあったが,前者は独立性を長くもっていた豪族で,後者は早くから朝廷配下に組み込まれていた豪族であるといえる。直姓をもつ者のなかには風直(大押直の意)を称する大国造もいたが,臣や君(公)姓のものには,令制の1国にあたるほどの広大な国造国を支配するものもいた。出雲国造出雲臣などはその例である。大化改新を機にして国造制は新しい国伴制に切りかえられ,原則的に国造は伴造になった。伴造は大宝令以後郡領と表記されるものである。
【律令国造】伴造任用替後の氏姓国造のなかから,天武朝初期に令制1国に1員の律令国造が制度化された。氏姓国造を旧国造,律令国造を新国造という呼び方も行われている。律令国造はそれぞれの管国の「諸祭祠事」をつかさどったのであるが,676年(天武天皇5)8月条や養老神祇令には,諸国大解除(大祓)に馬などの祓柱(はらえつもの)を輸納するつとめのあることがみえている。このことは国家に対し国造がそれぞれの地方の順服性を象徴的に表す役割をもっていたことを示している。律令国造の中でも出雲国国造の場合には「神賀詞(神寿詞)奏上」の特殊任務をもつが,それは国造の順服性を凝集表出したものといえる。
〔参考文献〕太田亮『全訂日本上代組織の研究』1955,邦光書房
上田正昭『日本古代国家成立史の研究』1959,青木書店
井上光貞『日本古代国家の研究』1965,岩波書店
新野直吉『国造と県主』1965,至文堂
新野直吉『研究史国造』1974,吉川弘文館
新野直吉『謎の国造』1975,学生社