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●国・郡・里 くに・ぐん・り

アジア 日本 AD 

 律令制における地方行政区画。全国を畿内と七道の八地域に大別したが,その各地域は数国ないし10余国で成立していた。国は小さいもので2郡,大きいもので20余郡からなり,郡は2ないし20里からなり,里は50戸で形成されていた。それぞれに国司・郡司・里長を置いた。

 日本の律令制は,隋・唐の律令の法体系を取り入れたもので,7世紀後半に成立した。当時の支配層を構成していた皇室・中央豪族は,隋・唐などによる東アジア情勢の変化に対応して,国内における早急な権力集中の必要に迫られていた。旧来の族制的な政治体制つまり各豪族による私有地・私有民支配を克服し,強力な権力機構を築くため,中国での体制を学び,取り入れた。大化改新(645,大化1)をへて,壬申の乱以後の天武・持統朝において,その体制の基礎が固められた。律令法典としては,近江令(668,天智7),飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう,689,持統3),そして701年(大宝1)に大宝律令が制定施行された。八省を中心とする中央官制,地方行政組織としての国・郡・里制,班田収授制,軍団制など,大宝律令によって日本の律令制はほぼその形態を整えたといわれている。その後,養老律令(757,天平宝字1)が施行されたが,内容的には大宝律令と大差はない。

【国】国の数は6世紀初頭で58国3島あったがその後,統合・分割され平安時代初期に66国に2島となり,以後,廃藩置県までこの数は変わらなかった。それぞれ国には国府が設置され,国司が派遣された。その設立年代は全国同時期であったかどうかは明らかでないが,646年(大化2)の詔勅に国司郡司を置いた記事があり,都とともに国府や郡家もしだいに設立されたものと思われる。『延喜式』には,都からの距離による,近国・中国・遠国のほかに大・上・中・下の4等級に区別されていた。国府の規模もこの等級にほぼ比例した。国府は碁盤目形の形態でそのなかには政庁(国衙,こくがと呼ばれていた)のほかに倉や細工所・馬屋などが置かれ,周囲は土塁で囲まれていた。地域の中心都市として水陸両交通の要衝の地を占め,付近には市場が開かれ,国分寺・国分尼寺が置かれた。中世になって在庁官人の舎となったものが多く,後世には府中と呼ばれたものもある。国司は,朝廷が屯倉(みやけ)の経営などのため設けた「クニノミコトモチ」に,国司の字を宛てたことに始まり,臨機に派遣されるものであった。大化改新のときに東国へ下った国司は国造の監督などにあたったようだが,まだ諸国に常駐する地方官でなかった。しかし,改新政治の進展につれ,国司制度も拡充・整備された。国司の権限は,軍事・警察から人民の教化に及ぶ,行政・司法のすべてにわたるものであった。国司に任命されたのは中央貴族やその門流に属する者で,旧国造家が世襲する郡司を督励して政務をとるとともに,中央政府との連絡にあたり,任期は6年だったが後に4年に改められた。

【郡】律令制以前には,郡は評(こおり)といわれ,氏姓制の国造の国を継承するものと考えられるが,統合分割されて郡となった。令制では郡を大・上・中・下・少の5等級に区別している。9世紀中ごろには約600の郡があった。郡司は国造・県主(あがたぬし)の系譜をひく旧来の地方豪族が任ぜられ,国司と異なり終身官で世襲が多かった。初審と軽犯罪の裁判権と刑の執行権が与えられていた。郡司は律令制の崩壊とともに荘園体制に組み込まれ,荘官・武士となった。

【里】里制は大化改新のときに採用され,690年(持統4)までにはほぼ全国にわたった。令制では原則として50戸を1里とし里長を置いた。715年(霊亀1)に郷里制が施行されると,里を郷,里長を郷長とそれぞれ改め,郷の下部単位として2ないし3里を置き,里正を置いた。740年(天平12)郷里制の里の名称を廃止し,50戸を1郷とした。