●クック
ヨーロッパ 英国 AD1728 ハノーヴァー・ウィンザー朝
1728〜79 イギリス海軍軍人・探検航海家。ハワイ島において島民との争いから落命したことで著名。ヨークシャー州の名もない家で生まれ,17歳のとき家を離れ農場の仕事に従事したのち,1746年海へ乗り出す。初め石炭輸送専門の船主に雇われるが,1755年イギリス海軍に入った。1757年航海担当マスターとして戦艦に乗り組み,アメリカ大陸での英仏植民地戦争に加わった。1759年セントローレンス川をさかのぼり,ケベックに近い渡河点の測量で成功を収め,“測量の名人”という評価を得た。ついでクックはニューファンドランドの海図を描きつづけた。1767年金星の太陽面通過の観測とともに,世界周航と探検を実施するにあたって,イギリス海軍省は,「余人をもって代え難い」との理由で,クックを士官に任命して航海指揮の責任を負わせた。【第1次探検航海】エンデヴァ号により1768年8月26日プリマス出港,1771年7月12日ダウンズ入港。出発にあたって,とくに意を用いたのは,当時の乗組員にとって恐怖の的であった壊血病に対する予防であった。塩漬けキャベツを食事の定則に入れ,これを拒んだだけで鞭打ちに処したほどである。リオデジャネイロ・ホーン岬をへて,8カ月目にタヒチに着いた。金星観測のあと,島民のツパイアを乗せニュージーランドをほぼ一周,そののちオーストラリア東岸に初めて上陸(1770年4月29日)した。つづいてグレート=バリヤ=リーフに沿って北上するうち,座礁する事故に出あったが,沈着に乗り切った。オーストラリアでは,同乗の博物学者にとって,ワラビー・カンガルーなどの珍獣をはじめ動植物の新種に恵まれた。トレス海峡を通り,ジャワ島のバタヴィア(ジャカルタ)では,有能だったツパイアのほか乗組員を次々と失った。バタヴィア以前は,病気による死亡者を一人も出さなかったことに満足していたのにもかかわらず,比較的短い航海である喜望峰までのあいだに全乗組員中の4分の1が死亡した。
【第2次探検航海】レゾリューション号およびアドヴェンチャー号。1772年7月13日プリマス出港,1775年7月30日ポーツマス入港。喜望峰から南インド洋を東に横断,南氷洋まで南下した上,ニュージーランドをへてタヒチに寄った。離島するにあたって,オマイという島民の青年を同乗させた。トンガ諸島・ニュージーランドから,再び幻の大陸を求めて南緯71度10分まで南下したが,発見するにいたらず,イースター島に達した。このあとマルキーズ諸島を訪れ,周航した島々の言語が類似していることに気がついた。再度タヒチに寄ると,北部地区に勢力を伸ばしてきた「ツ」(のちのポーマレ1世)が厚遇をもって迎えた。こののち,ニューヘブリデス諸島(現バヌアツ)・ニューカレドニア島・ノーフォーク島に接触したあと,ニュージーランドから2度目の南氷洋を通りホーン岬にむかった。
【第3次探検航海】レゾリューション号およびディスカヴァリー号。1776年7月13日プリマス出港,1780年ストロムネス入港。喜望峰から南インド洋を横切ってタスマニア島に着き,トンガタブ島で日食を観測したのち,タヒチにいたり,先の航海で同乗させたオマイを下船させた。1778年1月早々,北半球に入りハワイ諸島の一角に達した。その後,ベーリング海から北に抜けてヨーロッパに通じる“北西航路”の発見につとめたが果たせなかった。同年11月ハワイに戻り,運命のケアラケクア湾に投錨した。クックは,島民から「ロノ」の神として尊敬の念をもって迎えられた。ロノ神とは,島民からいつかは戻ってくると信じられていた幸福と平和と農業を司る神である。クックが去って4日後,帆柱を傷めた乗艦で引き返してきた。修理しているあいだに,ボートが盗まれ,回収をはかって艦上に帰ろうとしたところを島民に襲われて死亡した。51歳であった。1779年2月14日のことである。大航海時代に始まる探検の歴史に一応の幕が引かれた。
〔参考文献〕ハモンド=イネス,池央耿訳『キャプテン=クック最後の航海』1979,プレジデント社
アステリア=マクリーン,越智道雄訳『キャプテン=クックの航海』1983,早川書房