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●百済 くだら

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 朝鮮の古代三国時代の王国の一つ。日本では「くだら」と呼び慣わされている。4世紀の半ば,馬韓54国のなかの伯済国に投じた扶余系の有力首長が中心となって,高句麗が楽浪郡を攻略したのに乗じて,帯方郡を併合して,馬韓諸族を統一し建国した。伝承によれば百済の建国は三国のなかでは最も遅く,始祖王温祚が漢江下流域の慰礼城(現ソウル市江南区風納洞上域に比定)に都し,前18年に建国したことになっている。温祚王の父の朱蒙(鄒牟)は比扶余を追われて,卒本扶余に至って,その地の王の女を娶って高句麗を建国。朱蒙とこの卒本扶余王の女とのあいだに生まれたのが沸流と温祚の兄弟であった。朱蒙にはすでに長子類利がおり,これを太子としたので,沸流・温祚兄弟は南に遷り,兄の沸流は海辺の弥鄒忽(現仁川)に居を定め,弟の温祚は漢江南岸に居を定め百済国を建国したという。百済が明らかに歴史時代に入るのは13代近肖古王(在位346〜375)時代からである。当時,百済は鴨緑江中流の丸都城(現中国吉林省集安)に都していた高句麗と激しい対立関係に入っていたが,近肖古王は高句麗の平壤城に北上,侵攻して故国原王を敗死せしめた(371)。その翌年,王は初めて東晋に入貢し,鎮東将軍領楽浪大守の爵号を与えられた。また,この王の代には高句麗の南下策を牽制するため,南方からの倭国勢力との修交関係を結んだ。王は同じころ,南漢山山麓の漢山(京幾道広州)に遷都したといわれるが,百済は前後100余年のあいだ,漢江下流南岸の地を中心に国を建てていた。15代枕流王の代には東晋の胡僧摩羅難陀によって仏教が伝えられ(385),王都漢山には仏寺が創建され,仏僧10人が度されたという。しかしこの世紀の末,高句麗広開土王が出るに及んで攻守所を代えて,百済は高句麗の侵犯に苦しむようになる。5世紀に入り,高句麗では長寿王が立ち,王の15年(427)都を平壤に遷し,さらに重圧が加えられるようになる。百済21代の王,蓋鹵王は長寿王の大軍に国都漢山を攻囲され,捕えられ殺された。その子,文周王は都を南の錦江中流域の熊津(現忠清南道公州)に遷し(475),かろうじて国家の命脈を保った。百済はその地理的位置の関係がら,東晋を初めとした南朝の諸王朝にしきりに朝貢し,南朝の先進的文物の輸入に努めた。この熊津時代の武寧王(在位501〜523),同王妃の陵墓が発掘されたが(1971),その華麗な副葬品の数々は当時の百済・文化の極致を示している。日本に仏教を伝えたことで知られる百済中興の英主聖王(在位523〜554)は国都をさらに南の忠清南道扶余に遷し(538),国号を南扶余と称した。王は高句麗の南進に備え態勢の立て直しを図るとともに,新羅へ接近,551年新羅の新興王と連合,竹嶺を越えて南北漢江流域の高句麗領の割取に成功したが,新羅のために奪取されてしまった。憤激した聖王は新羅に侵攻するが,管山城(現忠清北道沃川)に戦い敗死する。以後滅亡するまでの約1世紀のあいだ,百済はむしろ旧領回復をねらう高句麗と接近し,新羅を敵視するようになる。その後,中国では隋による南北統一が実現し,つづいて唐の時代になるが,高句麗の攻略を断念した唐は,高宗の時代になると新羅と結んで,百済を攻撃の対象とするに至った。660年唐の名将蘇定方の10万の水軍は,新羅武烈王の子法敏・将軍金庚信の率いる新羅の陸兵5万とともに百済を滅ぼした。その後,百済の遺将鬼室福信は百済再興の兵を挙げ,周留城に拠った。日本もこの時援軍を派遣するが,錦江の河口で唐の水軍のため敗北,時を同じくして周留城も陥落し,百済は史上から消え去った(663)。政治・社会制度としては,貴族には八姓があり,王妃を出したのは真氏・解氏であった。官職には16の官等があり,扶余時代には王都には五部,地方には五方が存在した。百済文化は日本飛鳥文化のルーツでもあり,中国南朝の文化の影響を強く受けていた。山城跡・寺院址・仏像・陵墓の築造形式・古墳壁画などのいたるところにその影響は顕著である。

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