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●クセノフォン

BC430 

 前430ごろ〜前354ごろ,アテネ出身の歴史家・哲学者。前半生は軍人として活躍,後半生は著述に専念した。彼は古代の最も多作な著述家の一人であり,しかも膨大な作品群のほとんどが現存している。クセノフォンは思索の人ではなく実践の人であり,この点は作品にも十分に反映されている。アテネでの青年時代にソクラテスの董陶を受け,のちに『メモラビリア』(ソクラテスの想い出)・『饗宴』『弁明』を書いた。前401年に友人の勧めでペルシアの王子キュロスのギリシア傭兵軍に参加した。キュロスはアルタクセルクセス王とバビロン近郊に戦って敗死し,ギリシア軍の将軍の多くも謀殺された。後任の将軍に選ばれたクセノフォンは同胞1万人を率いて小アジアを横断し,苦闘の末に黒海沿岸にたどり着いた。この体験が名作『アナバシス』(一万人の退却)を生んだのである。のちスパルタ軍に加わって小アジア各地を転戦したときにスパルタ王アゲシラオスと出会い,その人柄に魅せられて『アゲシラオス』を書いた。前392年にアゲシラオスについてスパルタに赴き,コロネイアの戦いで祖国アテナイに弓をひいた。クセノフォンは確かにアテナイの追放令によって亡命生活を余儀なくされたのであるが,その原因や時期については諸説がある。小アジア遠征とコロネイアの戦いのいずれかが原因であろう。いずれにしろ,アゲノラオスはエリス郊外の田園の所領を彼に贈った。その地で過ごした30年間にクセノフォンは多くの作品を残した。しかし覇権がスパルタからテーベに移ると,所領をエリス人に奪われ,コリントスに移住した。前354年ごろそこで没したとも,晩年の数年間は帰国を許されてアテネに住んだともいわれている。有名な『ヘレニカ』(ギリシア史)7巻はトゥキュディデスの『戦史』の中断した前411年から前362年のマンティネイアの戦いまでを扱った通史である。内容は3部に大別される。各部で利用された資料は数と入手先の両方で明らかな限界を示しており,執筆時期を推定させるとともに,批判精神の欠如は歴史家としての致命的欠陥を示す。たとえば第2部で目立つスパルタびいきはもっばらスパルタ方の資料に依存しているためでもある。このほかの作品では『家政論』『騎兵隊長論』,そして大作『キュロスの教育』8巻などにクセノフォンの人間性と社会観がみてとれる。彼は倫理道徳を重視し,指導者養成のための教育を強調している。家人や使用人に対する家父長の,兵士に対する隊長の,そして国民に対する政治家の人事管理の重要性が述べられているのである。クセノフォンの文体は簡素で読みやすく,実体験に根ざす生彩な描写は古代人を魅了した。とくに彼の実践主義はローマ人の嗜好に適っていた。