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●薬売り くすりうり

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日本の薬業史の上で、売薬業が繁昌した原因の一つは、置薬という独特な行商の法によったことにある。元来、庶民が薬を求めるには、身近な所で草根木皮を採取して煎汁を服用したり、生汁を傷につけることであったが、近世に入って製薬が専業化した。初めは、製薬元の寺社や店舗において販売されたが、その後、行商による販売法が確立した。薬売りの商行為である行商は、修験道に起因した面がある。薬そのものも、修験者自体の必要から製されており、修験者が廻国修行の折、薬を携えて健康保持に留意するうちにムラからの供米の印に与えたり、病気平癒の祈祷に合わせて供与するようになった。やがて商行為として薬を売り、のちに米・金銭を得る手段となった。薬には神仏授与の神秘な由緒がまつわり、薬種は自然採取のほか栽培されたが、製薬法は秘密にされた。製薬が完全に専業化したときでも扱い所は寺社におき、行商によってその販路をひろげた。

【薬売りの中心地】全国に知られた薬売りの中心地は大和と越中である。大和の薬で有名なのは、“陀羅尼助”で、霊山大峰開祖役小角(えんのおづの)が吉祥草寺で創製したという由緒がある。黄蘗(おうばく)を濃く煎じ竹皮にのべたもので、陀羅尼を誦じながら製し、その功徳により薬効が大という。胃腸病・打僕症・捻挫・切傷・眼病などに効くという。陀羅尼助は当麻寺・高野山でも頒布されていた。西大寺の“豊心丹”、唐招提寺の“奇応丸”も古くからあり、近世には、鴨都波神社伝の“畝尼薬”、今住の“蘇命散”などがあった。葛・船倉・高取などが地方の中心地であった。越中では、富山の“反魂丹”という胃腸薬が有名である。吉野朝時代、当時越中礪波(となみ)に居住していた京都の長(ちょう)政春が、重病の母のため立山に登って不動明王と阿弥陀如来から、熊胆・硫黄を混合する薬の処方を授かり一度息の絶えた母の唇に薬を当てたところ、蘇生したという説話がある。立山の芦峅寺(あしくらじ)の修験者も、護符と“反魂丹”を持ち民間を歩いた。また江戸時代、富山藩主2代前田正甫(まさとし)には持病があり、岡山侯に仕えた万代常閑(もずじょうかん)から“廷寿反魂丹”の処方を得、製造販売させたという説もある。富山薬には万金丹・紫金錠・一角丸・感応丸・奇応丸・熊胆丸などがあった。ほかには、近江の多賀売薬“神教腹薬”、日野売薬“五色袖珍方”、越後の“毒消し”なども知られている。

【配置売薬と懸場】富山の薬売りは、一人立ちすると懸場帳をもって帳主となり、回る範囲によって連人や売子を雇う。売子は、得意先である懸場を1年に2度訪問し、そのつど定まった数の薬を置く。使用した分は集金し、古い薬は新品と取り替えて補充する。置薬は、1袋に風邪薬・下痢止め・頭痛薬・咳止め・傷薬などを主薬に、10種くらいを入れた。配置薬の精神は“済生利民”にあり、“先用後利”の商法を確立した。帳主のもつ懸場帳とは得意先を書き上げた帳簿で、郡市別に住所・氏名・売上高・値引率などが記載されている。なかには、屋号・家族・生年月日・娘の嫁入先まで記されていた。得意先は永年にわたるもので、祖父の代から引き継いでいるものも多く、6〜7代前からというのもまれにある。薬売りにとって懸場帳は財産であるから、これを売買した。売薬業を始めるには、懸場帳を買わなければ営業ができない。売子の服装は、明治・大正期は紺無地の着物に角帯・白パッチに脚絆・草鞋ばきである。冬には羽織を着た。背には、5段重ねの柳行李を一反風呂敷で包んで背負い、こうもり傘を持つ。柳行李の重ねは上段ほど小さく、桐の仕切箱を入れて薬に湿りが入らぬようにしてある。最上段には算盤・矢立・通帳・懸場帳・財布・弁当を入れた。また小型仏壇を入れるのも、富山薬売りの特色であった。庶民や子供に親しまれたのは、紙風船・絵紙・塗箸・針・九谷焼酒器・急須などを配ったことも一助となっている。全国に販路と声価は及び、現代でもその商法は行われている。

〔参考文献〕玉川信明著『風俗越中売薬』1973、巧玄出版

今村充夫著『日本の民間医療』1983、弘文堂

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