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●鯨組 くじらぐみ

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 鯨組は,近世初頭から確立したといわれる捕鯨業の経営単位である。捕鯨業は,その経営において当初から大きな資力と労働力を必要とし,このために鯨組が成立したものと考えられる。捕鯨業は,近世初頭に確立したといわれるが,当初の捕鯨法は銛突法(突取法とも称される)であった。銛突法は,鯨をみつけてから,十艘前後の船で鯨をかこみ,数十本の銛をうちこんで鯨をつかれさせ,最後に麻繩をつけた大銛でとどめをさし,船に引き寄せるものである。この銛突法による営利的な経営が始まったのは,1606年(慶長11)に紀州太地の和田忠兵衛によるといわれるが,当時この経営単位は突組と称されていた。銛突法は,東は安房から西南日本の紀州・土佐・長門・肥前・壱岐・対馬でも行われ,なかには千葉・石川県などでは明治時代初期まで行われていたのである。この銛突法もやがて網取法にとってかわられていくが,網取法は1677年(延宝5)に紀伊太地の和田角右衛門が発明したもので,日本独自の漁法である。一説によれば,九州で考案されたともいう。さて,この網取法は鯨が沖合から近づくと,多数の勢子船が三方から鯨を陸の方へ追いたて,多数の網船が待機していて,鯨が来ると左右に分かれて囲むように網をまいて,鯨の尾鰭にからみつかせる。そのあとで,羽差(はざし)(刃刺)という熟練した漁師が十数本の銛を投げ,弱ったところで羽差の長が一人で包丁を腰に鯨の頭に乗って噴潮孔を切り,次の羽差が鯨が沈むのを防ぐために綱を通す。これが終わると二隻の持双船が鯨を結びつけ,とどめをさしたあと,浜に運ぶのである。このように,網取法はその規模が大きく,鯨組の組織も大きくなる。いくつか例をあげてみると,1857年(安政4)の長門のある鯨組では,羽差22人,漁夫326人,他46人で計約400人にのぼっている。 1897年(明治30)の土佐の津呂の例をみると,勢子船15隻・178人,持双船2隻・20人,網船14隻・120人,遠見番10人,魚切12人,納屋夫7人,内日雇8人,市艘船頭4人,職人5人,その他あわせて464人であったという。このほか,土佐の宇津組でみると,勢子船12隻・144人,網船4隻・32人,持双船2隻・20人,市艘船2隻であった。この鯨組は,鯨をとる以外に多くの陸上での働き手がついている。つまり,捕獲された鯨を解体,鯨肉の塩漬・鯨油の製造・骨粕の処理といった加工処理に多くの労働力が必要とされたし,また漁船や漁具の修理・製造のための労働力も必要であった。

 こうした多数の人数からなる鯨組の労働組織は,かなり職制がはっきりとし,差も明確で,船もすべて等級が決められていた。そして,労賃も明治時代にはいってのことであるが,米で1日1升で,このほかシロワケにあたる配当金もあったが,職制・身分によって大きな差があったといわれる。

 網取法を主とする鯨組の年間漁獲高は,地域によって大きな差があるが,一鯨組当たり年間3頭から20頭くらいであったといわれ,それでも鯨一頭で七浦にぎわうとさえいわれた。しかし,漁獲の不安定性と多額の資金とを必要とするため,江戸時代において藩の保護が加えられたり,紀伊古座浦や土佐浮津のように藩営の形態をとるものもみられた。

 さて,明治時代にはいってから,ノルウェー式の近代捕鯨が導入されてくると鯨組は大きく姿をかえたり,消滅していった。1889年(明治32)に,砲による銛打ちの形式をもつノルウェー式が導入されて,日本遠洋漁業株式会社が生まれ,一応の成功をみた。明治末年ごろまでに,近代捕鯨を営む会社は12を数えたが,その構成は漁業外資本で設立されたもの,従来の鯨組の転換したものなどであった。

 そして,大形のナガスクジラ類を対象にし,このため沿洋による鯨を対象とする従来の鯨組も存続し,1967年(明治40)ごろまで各地にみられたが,漁獲高の減少や近代捕鯨におされて消滅していったのである。〔参考文献〕平沢豊『日本の漁業−その歴史と可能性』1976,日本放送出版協会