●供御人 くごにん
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朝廷の内膳司が管掌する天皇の食事を供御といった。もとは大炊寮所管の官田から貢進される御稲(みしね)を内膳司で調理した御飯の意であったが,大膳職の管掌下に諸国から貢進される魚介類・海藻・野菜類などの贄(にえ,副食物)も内膳司で調理・典膳されたため,天皇の食膳そのものを供御と呼ぶようになった。平安時代初期にそうした副食物の調達をつかさどる御厨子所が内膳司に新設され,その管下の御厨・御薗から魚介・菜果が貢進される仕組に変わり,その義務を負う者には課役を免除して贄人と呼んだが,やがて,御稲を貢進する官田の農民を含めて,広く禁裏供御人と称するようになると,炭供御人・氷室供御人・火鉢供御人・猪皮供御人というふうに,朝廷の諸官衙に属して手工業生産物を貢納する者もすべて供御人を称するようになった。律令制的貢納体系の解体に伴うこうした変化は,朝廷のみならず,院・宮・王臣・寺社の場合にも生じ,一方における荘田や雑役免田の獲得による荘園の増加と並んで,在地勢力と結んだ御厨の設置が盛んとなった。883年(元慶7)10月26日の太政官符は,〈今,件の司所院宮等,土浪人を擇ばず恣に腰文幡を放ち国中に遍満して其の数少なからず。此の如き輩は心に遁役を挾み,事を供御に寄せて,動もすれば弱民を凌ぎ,政を害る〉と内膳司・進物所・諸院・諸宮が地方の在地勢力と結んで贄人の身分を証する腰文幡を乱発し,民政の妨げとなっていた事態を指摘している。このように,律今制の動揺に伴って貢納体系を官田・荘田・雑役免田・牧・御厨・御薗といった官衙直轄領・家産的私領からの収奪体系に組みかえていった平安時代の貴族的王朝国家の下で,律令制的収奪と闘いつつ在地における家父長制的大経営をくりひろげつつあった富農・長者層が,官衙や院宮王臣寺社と結んで獲得していった特権的身分が供御人という身分であり,ときに神人・寄人・雑色と称せられたものと本質的に同様のものである。平安後期には,その特権が関所の自由通交権・営業の独占権にまで拡大されると同時に,官衙や領家への身分的隷属関係からもしだいに解放され,たとえば蔵人所燈炉供御人が東大寺鋳物師や摂関家の殿下御細工を兼ね,御厨子所の摂津今宮供御人が祇園社大宮駕輿丁でもあったように,いくつもの従属関係を結ぶことによって相対的な自立性を高めていき,やがてその生産・交易の独占権を主張して特権的な座を結ぶにいたった。南北朝以降,農村内部におこる商品作物の栽培や手工業生産が発達し,農民的商品経済が形成されるようになると,御厨子所をはじめとする諸宮衙や権門寺社に一定の貢納物や公事銭を納めて供御人の身分を得,営業や関所通過の自由を獲得する者がしだいに現れて,旧来の特権的座商人ら供御人集団の独占をおびやかす新儀商人として成長していき,戦国末期の楽市楽座制を導き出すにいたった。〔参考文献〕脇田晴子『日本中世商業発達史の研究』1969,御茶の水書房
豊田武『中世日本商業史の研究』1952(増訂版),岩波書店