●公卿 くぎょう
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摂政・関白以下,大臣・大中納言・参議および三位以上の廷臣の総称。【公卿制の沿革】公卿の称は中国における「三公九卿」の制に由来するといい,『日本書紀』などの古い用例では四位・五位をも含む上級官僚を指す場合もあるが,平安特代に入って摂政・関白や内大臣・中納言・参議などの令外官が定着するに伴い,摂関・大臣を公,大中納言・参議および三位以上を卿といい,併せて公卿と称することが一般化し,それらを年ごとに収載する職員録,『公卿補任』も作成された。公卿は太政官の最高幹部として国政を審議する議政官であり、朝儀・公事に列し,あるいは指揮する上卿(しょうけい)であったから,この意味の公卿は現任の参議以上に限られ,平安中・後期には16人を定員としたので,〈二八之員〉とも称された。しかし実際にはこの定員を越す場合が多く,ことに院政下の政務運営の影響もあって,前官公卿の国政参与の例も多くなり,それに伴って前官者および三位以上でまだ参議に昇らない非参議(ひさんぎ)の数も急増し,鎌倉時代の初めには,『公卿補任』にのせる公卿が50人にも達した。また平安末期から鎌倉時代にかけて,公卿に昇る家柄がしだいに限定され,さらに摂関の職を独占する摂家(せっけ)が成立したのをはじめ,大臣・近衛大将を極官(ごくかん)とする清華(せいが),近衛中少将を経て大中納言に昇る羽林(うりん),弁官を経て大中納言にいたるのを官途とする名家(めいか)などの家格も成立した。一方,平安中期以降,昇殿の制が成立し,内裏(だいり)清涼殿の殿上間(てんじょうのま)に昇ることを許された者を殿上人とか堂上(どうじょう)といい,昇殿を許されない地下(じげ)官人と区別した。また公卿は昇殿を許されるのを原則としたので,江戸時代には公卿・殿上人をあわせて堂上家と称し,武家諸侯に対して,広く堂上公家を指して公卿と称した例も少なくない。
【文化のにない手−公卿】中国の制度・文物を受容して律令国家が成立して以来,律令官僚の最上層を占めた公卿は,唐風の宮廷文化のにない手であり,享受者であった。その後,文化の和様化が進むなかでも,漢才(からざえ)すなわち中国文化に関する知識は公卿の欠くべからざる教養とされたが,一面では,公卿の生活様式の和様化が,文化全般にわたる和様化の土台となり,背景となっている。公卿の衣服は日本的な染織の美を生み,その住宅は庭園と結びついて寝殿(しんでん)造と呼ばれる和様建築の一様式を完成させた。またかな文字の発明・普及により,公卿とその子女をとりまく女房から女流作家が輩出し,かな文学の最盛期をきずきあげた。平安時代後半期の文化を藤原文化・王朝文化といい,公家文化の頂点というのも,そのにない手が藤原氏を中心とする公卿=公家であったからである。ついで鎌倉時代に入り,公家勢力はしだいに政権から遠ざかったが,一方では公家文化復興の気運もおこり,武家文化の形成に大きな影響を与えた。さらに江戸時代に入ると,公家は完全に政治の場からしめ出されたが,その反面,率先して文芸復興の気運を促し,伝統文化の保持・継承に大きな役割を果たした。
【公卿の経済】律令制度においては,官職と位階に応じて官人に田地や封戸(ふご,戸から納めるべき租税を封主に納めさせる制度)・各種の禄(絹・布などの現物給与)を支給することを規定し,公卿の経済生活はそれによって支えられる仕組みであった。しかし平安中期以降,律令制給与体系が急速に崩れ,荘園制が拡大するに及び,摂関など権門勢家に荘園が集中し,そのなかには一般公卿の寄進によるものも少なくなく,公卿間に荘園経営を軸とした主従的関係も生じた。また平安末期以降,公卿に国衙(こくが)の支配権を与える知行国(ちぎょうこく)制が急速に発展し,それによる収益は公卿の家政経済の大きな支えになった。しかし南北朝時代以降,荘園制も知行国制も衰退し,公卿は経済的に窮迫したが,江戸時代に入ってからは,幕府より摂家の2,000〜3,000石をはじめ,家格に応じて家禄を与えられ,いちおうの経済的安定を保障された。