●公営田 くえいでん
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823年(弘仁14)「応に大宰府管内の諸国に公営田を佃らしむべき事」と題する太政官奏が出された。この公営田は,大宰府管内の諸国が,掌握下の口分田・乗田のなかから12万町余を割き取り,1町以上を預かる“正長”のもとで,6万人余の人々を“徭丁”として耕作させ,505万束余の稲を生産させるという計画のもとに設置された。徭丁となった人々には功食が支給されたが,それには「獲稲」すなわち公営田の収穫の一部があてられた。獲稲はまた,公営田の用地にされた口分田の租や乗田の地子等にもなったほか調庸料としても支出された。そのころ,課役の民は調庸物をつくっても貧困のため安く売却してしまい,納期になっても国に納めることができない場合が多かった。そこで,公営田を設置した諸国は,その獲稲との交易により調庸物を入手して平安京の朝廷に納入することにしたのである。それにともない,徭丁になった人々の調庸は免除された。平安京の朝廷は,諸国から調庸を収取するため多くの人々を労働させていたが,律令体制の動揺に伴い,賦役今に規定された方式ではそれが困難になってきたとき,今の規定とは異なる方式を採用することによってそれを存続させようとしたのであった。855年(斉衡2)には〈応に例に依り公営田を佃るべき事〉と題する太政官符が出たが,そこに引用された肥後国解においては〈澆季之民窮幣殊に甚し,若し営田之利潤無くば必ず調庸之輸貢を闕かん〉という認識を示している。しかし,諸国の公営田設置は必ずしも成功したわけではない。当時,出挙と営田により成長してきていた富豪層は,公営田を設置した諸国と利害を対立させることが少なくなかった。公営田の徭丁となった者が調庸を免除されると,出挙の一方式として貧窮の民の調庸を代輸していた富豪層はそれが困難になった,というのはその例である。各地で成長しつつあった富豪層と対立することにより,諸国の公営田設置政策は,結局失敗に終わることが多かったとみられている。