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●偶像崇拝論争 ぐうぞうすうはいろんそう

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 一般的には,神やそれに準じる聖人を,画像という可視的手段で崇敬する信仰形態の可否をめぐる論争をいう。歴史的には,とくに8〜9世紀にビザンツ帝国で生じた宗教的・社会的紛争をさしていう。キリスト教は当初,モーゼ十戒の偶像崇拝禁止の伝統を受け継いでかなり慎重であったが,4世紀の公認後,神像に崇敬を捧げる習慣をもつ大量の新信徒の流入もあり,教父たちも民衆教化の観点から,それ自体を信仰対象とする「礼拝」と,信心の仲介手段としての「崇拝」を区別して,後者を認めるようになった。だが聖画像禁止を遵守するイスラームの興隆を刺激として,聖像破壊に伴う教会粛正が帝権確立をめざすビザンツ皇帝の重要政策に位置づけられるようになった。726年,皇帝レオン3世は,天使・殉教者・聖人の像の崇拝を,730年にはキリスト・聖母を含むすべての聖画像の崇拝を法をもって禁止した。ローマ教皇はもとより,コンスタンティノープル総大司教ゲルマノスらもこれに反対したが,皇帝は強行し,その子コンスタンティノス5世はさらに進んで,抵抗する修道院の破壊や財産没収を断行した。その後継者レオン4世の時代にいくらか緩和され,その妻イレネは摂政中の787年に第2回ニケーア公会議を開催し,聖画像崇拝を正当として,いったん論争に終止符を打った。だが,アルメニア人皇帝レオン5世(在位813〜820)の登場とともに再度破壊政策がとられ,テオフィロス(在位829〜842)に及んだ。彼の死後,妻テオドラの摂政時代の843年に,聖画像崇拝は再度容認され,つづいて870年の第4回コンスタンティノープル公会議で最終的に決着した。しかし1世紀におよぶ経過のなかで皇帝権は著しく強化され,その後2世紀間のビザンツ帝国の隆盛の基盤となった。一方,西欧では聖画像崇拝は一貫して擁護・尊重されつづけ,そこでこれが問題となるには,16世紀の宗教改革の時代を待たなければならなかった。