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●空海 くうかい

アジア 日本 AD774 奈良時代

 真言宗の開祖。空海は,774年(宝亀5)6月15日,讃岐国多度郡屏風ケ浦(いまの香川県善通寺市)で生まれる。幼名真魚。父は讃岐の豪族佐伯の直田公,母は阿刀氏の出で,玉依御前。母方の伯父大足は,桓武天皇の皇子伊予親天の侍講(家庭教師)を務めた。788年(延暦7)真魚は,15歳で都に出る。この年,天台宗の開祖の最澄(伝教大師)は,比叡山に薬師如来像をまつり,一乗止観院(いまの根本中堂)を建立している。大足について儒学を学んだ真魚は,18歳。当時,わが国唯一の国立大学に入る。このころ,奈良大安寺の勤操から虚空蔵求聞持法を授けられ,“真言を百万遍唱える”行を始めるが,それを転機として官位栄達の道を捨て大学を中退。東大寺で具足戒を受け,名を空海と改める。空海は,このころから深山に分け入り,海辺を歩く「辺路の修行」をつづける。

【入唐求法の旅ヘ】俗世の縁を断ち切って霊山の遍歴を重ねた空海は,797年(延暦16)24歳で『三教指帰』を書いて生涯仏道を歩む決意宣言する。この草稿本が『聾瞽指帰』(国宝,高野山)である。空海は,その後,804年(延暦23)桓武天皇の勅許を得て留学生として入唐求法の旅に出るが,24歳から31歳で入唐するまでの消息は明らかでない。このあいだ,諸寺を遍歴し,留学の準備に費やしていた。大和国高市郡久米寺で,大日経を発見したのもこのころと推測される。入唐の勅許を賜った空梅は,遣唐大使藤原葛野麻呂の船に乗り,唐にむかう。同じ船団のなかに最澄がいた。船は途中嵐に遭い,漂流ののち,台湾の対岸,福建省に着いた。空海は,唐の都の長安(いまの西安)に入り,翌805年(延暦24)青龍寺で,真言7祖,恵果から密教の秘法を伝授され,「遍照金剛」の称号を与えられる。恵果は,この年12月15日に入滅する。恵果の没後,空海は,多くの密教経典・法具・美術作品などを携えて帰国。京都の神護寺を拠点に活躍する。恵果と空海の出会いについて,現在神護寺住職の谷内乾岳師によれば,恵果は「われ先より汝の来れるを知り,相待つこと久し,今日まみゆるは,大いに好し大いに好し」と喜び迎えたといわれる。余命がつきんとしている恵果は,法を伝授するに相応しい人物が無かった。その結果,翌6月13日胎蔵界灌頂から始まって,7月金剛界灌頂,8月伝法灌頂と3カ月に亘って空海は真言密教の真髄を伝授され,それとともに,必要な経典・曼荼羅・法具などをことごとくを授けられる」と書いている(『古寺巡礼神護寺』淡交社刊)。空海は,最澄と同じ船団で唐に渡ったが,最澄は,「還学生」という短期の留学。空海は20年という長期留学の予定だったが,恵果の遺言に従って翌806年(大同1)10月に帰国。最澄は,日本天台宗を,空海は真言宗をそれぞれ開く。空海は,811年(弘仁3)乙訓寺別当となるが,翌年,高雄山に還住,最澄以下にわが国で初めて金剛界灌頂胎蔵界灌頂を伝授。修禅の道場として高野山の開創にかかる。7歳年長の最澄は,822年(弘仁13),56歳で入滅。空海の布教活動はこのころから本格化する。

密教美術の創造】823年(弘仁14),空海は,嵯峨天皇から東寺(教王護国寺)を賜り,真言密教の根本道場として密教美術の創造にとりかかる。その根本は,羯摩曼荼羅といわれる講堂の仏像の配列である。大日如来を中心に,金剛界五仏をはじめ,21尊が安置されている。その大半が平安時代初期の作品で,国宝に指定されている。ふつう,堂内に仏像が林立することはありえないが,この仏像配列こそ曼荼羅の立体化であり,密教の世界観を示す空海の思想なのである。学生のころ,よく東寺の講堂を訪ねたという作家の井上靖氏は〈21体の仏像が整然と配置されている堂内の雰囲気は,一種異様なきびしさを持ち,そこへ一歩足を踏み入れると,こちらの何もかもが洗い潔められ,再編成されるような思いを持った。……その中にふらふらと迷い込んだことは,若かりし日の私の,おそらく最も大きい事件であったろうと思う〉と書いている(『弘法大師空海』和歌森太郎編著)。これらの像の制作については,空海自らが指導に当たった,と伝えられる。東寺を仏教美術の宝庫とした空海は,綜芸種智院を創設,庶民の教育に道をひらいた。現在の種智院大学のはじまりである。空海は,835年(承和2)高野山で入定する。東寺講堂の諸尊の開眼供養が営まれたのは,それから4年後の839年(承和6),醍醐天皇から空海に「弘法大師」の諡が贈られたのは,921年(延喜21)である。

即身成仏】若いころから山野を遍歴し,自然の厳しさのなかで修練した空海の教えの根本は,即身成仏である。これらは顕教でいう修行の積み重ねで「仏になる(悟りをひらく)」のに対し,三密の行により,この身がそのままで仏になれるという真言独自の教えである。三密とは,手に印を結び,口に真言を唱え,心に仏を思う。つまり,大日如来をわが身心そのものと受けとめ,〈現実に,だれもが“迷い”や“悩み”は持ってはいても,その奥深くに純粋な仏性が秘められている。一心に仏を念じることで,それが開発されればそのまま仏である〉というのである。

【弘法大師は万能の天才】〈大師は弘法〉〈太閣は秀吉〉のことわざがあるほど空海は大衆に慕われた。「同行二人」と笠に書いて“大師とともに”四国八十八箇所巡拝するお遍路の姿に現代も生きつづける大師をみる。命日の毎月21日,京都の東寺で営まれる御影供は「弘法さん」の名で親しまれ,千軒を超える露店と10万の人出でにぎわうのも大師の業績に対する大衆信仰の現れにほかならない。大師が済世利人の“利世の行”に徹し,誕生の地,四国はもちろん,全国津々浦々にまで布教行脚をつづけたことは,多くの寺と,数知れぬ伝説が残されていることからもうなずける。とくに,道をつけ,橋を架け,水害に悩む人々のために築堤に力を注ぐなど土木技術面でその才能ぶりを発揮した。また,空海は,語学・文学・書芸に優れ,教育・文化面でも多彩な活動を展開している。なかでも書は,嵯峨天皇・橘逸勢と並ぶ三筆の一人で,〈弘法筆を選ばず〉〈弘法も筆の誤り〉といわれるように,あらゆる書体をこなしたという。最澄にあてた『風信帖』(国宝,東寺)は格調の高い書として知られる。著書は,おもなものだけでも50余に及ぶ。なかでも処女作の三教指帰は,儒教・道教・仏教の思想を比較しながら戯曲風に展開させ,仏教の優位性を説いたもので空海の思想の原型とされる。

【御遠忌の記念事業】1984年(昭和59)は,弘法大師1150年の御遠忌にあたり,各種の記念事業が行われた。真言宗の18本山で組織する「真言宗各派総大本山会」(京都の智積院内)は,同年9月,空侮が恵果から真言密教を伝授されたゆかりの地,中国西安市に200人の訪中参拝団を送り,青龍寺の「恵果・空海記念堂」に等身大の空海の木像を刻み,安置するとともに,百万巻をめざして般若心経を奉納するなど,日中の文化交流に大きな役割を果たし,両国の名僧の足跡をしのんだ。また,全真言宗青年連盟は,空海の映画を製作して,偉大な文化人としての空海の思想と波乱の生涯を描き,全国で公開した。

【曼荼羅】密教の世界観・宇宙観を絵画で表現したもので,本質・中心・神髄・醍醐味などと解される。7世紀のころ,インドで原型がつくられ,密教の伝播とともにチベット・モンゴルをへて中国へと広がり,わが国には,空海によって請来された。大日如来を中尊とする両界曼荼羅は,真言密教の根本教典である大日経によって描かれた胎蔵界と,金剛順経によって描かれた金剛界とに分かれる。

〔参考文献〕『弘法大師のすべて』大法輪選書

『古寺巡礼神護寺』淡交社

松原泰道『仏教入門』詳伝社

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