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●均田制 きんでんせい

アジア 中華人民共和国 AD 

中国北魏の孝文帝のとき(485年)に始まり、唐の中ごろ(6世紀中ごろ)までおよそ300年間行われた土地制度。国家による土地の還授(回収と支給)を原則とし、大土地所有の進展を抑えて国家の経済的基盤である農民の再生産を保障するとともに、土地に緊縛して税役を課し、強力に支配しようとしたもの。その基礎をなす均田思想は、儒家によって土地の公平な分配をはかったとして、理想の土地制度と考えられた周の「井田法」にまで遡ることができる。

【均田制以前】均田制に先行する土地政策としては、まず豪族の土地兼併とそれによる農民の没落を防ぐため、漢代に行われた限田政策および周の「井田法」を理想とした新の王莽(おうもう)の王田政策をあげることができる。そののち後漢末の戦乱によって華北の農村の荒廃が進み、農民は郷里を離れて流亡せざるをえない状況が現れた。こうしたなかで、三国の魏は屯田制(民屯)を行い、荒廃し無主となった土地を国家の所有とし、それを流民に割り付けて自作農創設をはかろうとした。ついで西晋武帝は、280年(太康1)呉を平定して中国を統一すると、占田・課田制を行い、土地所有の最高限度額を定めるとともに、年齢に応じて男女に一定の土地を割り付け、それによって租税収入を確保しようとした。その効果がどの程度あがったかは、西晋が比較的短命に終わったため、明らかにしえないが、北魏の均田制は、これら先行する土地制度の延長線上に位置づけることができる。

【北魏の均田制】「五胡」の自立によって華北は再び荒廃し、晋室は南渡を余儀なくされた(東晋)。そののち439年に華北を統一したのは、鮮卑族拓跋氏が建てた北魏であった。北魏は、華北の征服戦争を進めていく過程で、その軍事力を背景に豪族勢力を抑え、荒廃した華北の開発をはかって計口受田(人口に応じた土地の支給)を行ったが、孝文帝のとき李安世(443〜493)の意見にもとづき、485年(太和9)均田制を施行した。すなわち丁男(15〜69歳の男子)に露田40畝(穀物栽培の土地、唐の口分田にあたる)、婦人(丁妻)に20畝を支給した。この露田を正田といい、多くの場合ほかに同額の倍田が与えられたが、これは農業技術水準の低かった当時にあって、同じ土地で連作が不可能なため(収穫後1年間休耕するため)に設けられたものである。露田は当人が死亡もしくは70歳に達すると国家に回収された。このほか丁男には、絹の産地では桑田20畝(桑・棗・楡を植える土地、唐の永業田にあたる)が、また麻の産地では麻田10畝(麻を植える土地、なお婦人には5畝)が支給された。そのほか園宅地(菜園と宅地)などの支給もあり、地方官にも地位に応じてのちの職分田にあたる一定の土地が与えられた。このうち露田と麻田は還授されたが、桑田は世襲が認められた。なお奴婢には良民と同額が、耕牛には4牛を限度として、1頭につき露田30畝が支給され、奴婢・耕牛の場合、その所有者がこれを失うと土地は国家に回収された。また土地の還授は、毎年正月(のちに10月)に行うことが定められていた。土地の支給に対する代償として、北魏では夫婦単位に租(粟2石)・調(帛1匹、麻布の場合には布1匹)が課せられていた。なお北魏の均田制のもとでは、奴婢・耕牛をもつ豪族の土地は、ほぼそのまま国家に容認されることになり、奴婢・耕牛に対する税率の低さも加わって大土地所有拡大の契機ともなった。その反面、従来豪族のもとにあって、国家により掌握されなかった奴婢や耕牛の数が明らかになり、税の徴収が可能になった。こののち北魏の均田制は、原則として東魏西魏・北斉・北周の諸王朝に継承されて隋・唐に及んだ。

【唐の均田制】隋は北斉の制度を継承し、589年中国を統一すると、従来華北に限られていた均田制を全国に及ぼし、婦人・奴婢・耕牛への土地の支給を廃止し、さらに官人永業田職分田も整備した。隋に代わった唐では、原則として隋の制度を踏襲し、丁男(21〜59歳、ただし時期によって異なる)には永業田20畝(隋では世業田と呼ばれた)・口分田80畝(ただし土地の少ない狭郷では2分の1)の計1頃(約5.5ヘクタール)と若干の園宅地が支給された。このうち永業田は子孫に世襲され、売買も比較的自由であったが、口分田は、支給された当人が死亡もしくは60歳に達すると、全部もしくは1部が国家に回収され、原則として売買は禁じられていた。そのほか老男・身体障害者・寡婦・丁男のいない戸主・商工業者・僧侶・道士・特殊身分のものへの土地の支給も規定されていた。また官吏には、官位・勲等に応じて100頃以下の官人永業田職分田(官職に対して支給される土地で、在職中のみ)など種々の名目の土地が与えられた。さらに官庁の公用にあてるための公廨田(こうかいでん)も整備された。なおその規定のとおり実際に土地の還授が行われたかどうかについては、従来議論されてきた問題であり、近年、敦煌トゥルファン出土の文書類に対する研究が進められるにつれて、施行状況についても次第に明らかになりつつある。唐では土地の支給に対する代償として丁男租庸調(ただし18〜20歳は恩典として免除)・雑徭が課せられた。このような均田制をはじめとして租庸調制府兵制などのいわゆる律令体制を整えることによって唐は中央集権体制を確立したが、職分田は有力者や農民に賃貸され、また永業田や口分田でも小作関係が行われるようになって、7〜8世紀には農民の流亡や階層分化は一層進んだ。貨幣経済と大土地所有の進展および租税その他の重圧による農民の没落が顕在化する状況をふまえて、780年に両税法が施行されると、均田制はその役割を終えた。なお日本の班田収授法南詔土地法は、唐の均田制の影響を受けている。

〔参考文献〕堀敏一『均田制の研究−中国古代国家の土地政策と土地所有制』1975、岩波書店

鈴木俊『均田・租庸調制度の研究』1980、刀水書房


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