●近代社会 きんだいしゃかい
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日本の近代化は明治維新を契機として始まった。明治維新の始期をいつにするかについては,[1]民衆の反封建闘争・工場制手工業(マニュファクチュア)の形成などの国内的−−自生的−−要因を重視する天保期という見解と,[2]黒船来航=欧米諸国の開国通商要求−−ウェスタン・イムパクトー−−という対外的要因を重視する1853年(嘉永6)とする見解がある。社会的変動という点から見るならば,むろん18世紀後半以来の封建小農民の解体・農民的商品流通の進展,それらをふまえて天保期に明治維新における対立・対抗関係が形成されていたことはさまざまの実証的研究によって明らかにされている。しかし,黒船来航・開国を契機として,諸矛盾が一層明確化され深化されたということ,ウクラードとしての資本制的生産様式が明治維新という変革のかなり後になって確立する,自生的資本主義生産様式の未熟ということなどを考える時,日本の近代化にとって「外圧」という対外的要因が一つの画期をなしているといえよう。すなわち,1853年のペリーの開国要求によって惹起された鎖国・開国論議を契機として従来は抑圧されていた「諸士横議」が「公議輿論」として通行するようになり,しかも農民層からも「草莽の志士」が輩出されるなど,広範な社会階層の政治的利害が政治決定に影響を与えるようになった。また,1858年(安政5)の日米通商条約をはじめとする諸外国との通商関係の成立は,物価の騰貴や生糸・茶といった輸出産品生産の急増,輸入綿織物や生糸輸出に圧迫された織物業の没落をもたらした。このような政治的変動・経済的変動,そしてそれらによってもたらされる社会不安などが近世社会を急速に動揺・解体に向かわしめた。このような危機に対処しようとする諸勢力のなかから,討幕派諸藩の軍事力に依存して,「王政復古」を標榜する明治政権が権力を掌握し,「上からの変革」を強行する。このようにして日本の「近代社会」が形成されていった。
さて,「近代社会」として明治以降の日本を見るに際し,考慮せねばならない点が二つある。まずその一つは,日本における19世紀中葉の政治的・経済的・社会的大変動は,日本近代特有の形成要因とは言えないということである。非西欧諸地域が資本主義経済体制に組み込まれる時に,程度の差はあれ一様に経験した植民地化・半植民地化の危機という非西欧諸地域における一般的変動の一つである。したがって,このような危機に対応して形成された「近代社会」は,西欧における自生的ないわゆる「西欧近代社会」とは,形成の過程も異なり,出現した「近代社会」も異なった形態をとっている(植民地ジャワにおける耕地の村落共同体所有は,オランダによる植民地経営の過程から生み出された「近代社会」の下部構造であったことを想起されよ)。このような諸地域の一つとしての日本の「近代社会」であるという視点から考えねばならないであろう。すなわち,日本「近代社会」の非西欧社会的特質−−しばしばそれは「後進性」「歪み」と称される−−のもつ普遍性についての認識である。19〜20世紀の世界が,西欧資本主義の覇権の下に,多様な社会形態をもった諸地域を,資本主義世界体制という一環のなかにさまざまな位置づけをすることによって成立した「近代世界」であるということ,したがって,西欧を範とする単線時系列的世界史観の克服ないし修正が求められる課題であるということでもある。この点については,未だ十分な論議が行われていない。今後もなお検討を要するといえよう。
さて,第二の点は,明治維新の過程で,古代ヤマト王権以来の伝統的権威・正統性を持つ天皇が,再び政治の舞台に登場し,政治の中心になったということである。神秘的・宗教的色彩を帯びた政治権力としての近代天皇制という,日本特有の現象が,日本の「近代社会」にどのような特質をもたらしたかという視点である。天皇制という概念は,1932年に日本共産党のテーゼ(三二テーゼ)で打ち出されたもので,彼らは天皇制を次のように規定した。寄生地主・ブルジョワジーという封建的・資本主義的両階級に依拠しつつ,しかも彼らから相対的独立性をもった官僚機構にささえられて独自性を有する絶対主義的性格の権力であると。今日でも近代天皇制の権力構造に関してはさまざまの議論がたたかわされている。「近代社会」として日本のもつ特徴としては,「近代化論者」たちが高く評価する官僚の先どり性と,天皇の祖先神を頂点とする神々の体系が現実界とパラレルに構成された国家神道という宗教を「国体」の中核的存在とした点であろう。前者について見るならば,封建支配層の一部が対外的危機意識からなしくずし的変革=明治維新をすることによって中央集権的国家をつくり,民衆運動(世直り・世直し)のもつ革命性をおさえこんだ時から一貫している。新政権の中心に座った旧武土層は,官僚として,西欧列強に範を求めつつ,民衆の先どりをし上からの社会変革を行っていった。平民の苗字をゆるす(1870),穢多・非人の称を廃止する,散髪脱刀令,田畑勝手作の許可(1871),土地売買の解禁,職業の自由を許す,徴兵令(1872),地租改正(1873)といったように封建的諸制限の撤廃・近代的諸制度の創出を矢継ぎ早やに行っている。このような官僚主導による社会変革は,その後もつづき,自由民権運動を抑圧しつつ帝国憲法を発布したこと,さらには昭和期には下からのファシズム運動を抑圧しつつ上からのファシズム化としての大政翼賛体制をつくり上げたことまで一貫しているといえよう。むろんこのような上からの政策は,民衆の反発・抵抗を呼びおこしたが,それを押し潰し追従せしめるのに大きな力を奮ったのが国家神道に支えられた天皇制イデオロギーであった。何をもって天皇制イデオロギーの実体とするかについても議論の分かれるところである。明治政権は誕生と同時に〈此度王政復古神武創業ノ始ニ被為基諸事御一新祭政一致之御制度ニ御回復被遊候〉(1868年3月13日)として祭政一致を打ち出した。その具体化の第一歩が〈先第一神祇官御再興御造立ノ上……普ク天下之諸神社神主禰宜祝神部ニ至迄向後右神祇官附属ニ被仰渡候〉という神社の国家による系列化・序列化であった。その後紆余曲折はあったが1900年(明治33)4月27日に内務省社寺局を神社局・宗教局(1913年6月13日文部省へ移管)に分離し,宗教にあらざる宗教として国家神道は確立していった。そのなかで神社として公認されたものは,官国幣社・府県社・郷社といった延喜式を根拠とする「由緒正しき」神社や,靖国神社・別格官幣社(湊川神社・乃木神社など)のように国家に功績ありとされた者を祭る神社であった。民衆が信仰の対象としていた小祀は淫祀として廃せられていった。このようにしてつくり上げられた国家神道ではあるが,その教義は不分明である。記紀神話に依拠して,天皇の祖先神である伊勢皇太神宮を頂点に,国民の祖先神を宗末関係で結びつけ,家族関係を律する倫理をもって政治(マツリゴト)を行う「国体」を明徴するシンボルであった。このような国家神道を背景として,天皇を日本の宗家とし,国民を「赤子」とするイデオロギー=家族国家観が,日本の社会関係を律していた。軍隊における将校と兵士,職長と職工,地主と小作,それぞれを親子関係に擬制し,その中でまた年序によって兄弟に擬制するといったように,あらゆる部面にわたって親族関係・擬似親族関係が適用された。このような社会関係は,温情主義的な側面と,個人の行動を集団の利害に厳しく結びつける側面の両面性をもっていた。そして同時に,この関係に入らない,入れてもらえない人々に対する非人間的取り扱いもここに起因している。すなわち植民地人(朝鮮人・台湾人・アイヌ民族)さらには社会の「辺境」に位置づけられた沖縄人・被差別部落民に対する差別は,このようなイデオロギー・社会関係によっている。
一見「共同体」のそれに類似しているようにいわれることもあるこのようなイデオロギー・社会関係をどのように評価し位置づけるかは,見解の異なるところである。近年,日本型労務管理として欧米において再評価の動きもみられる日本の労働力編成の基底には,今なおこのような関係が生きているのではあるまいか。その端的な例が,法律的に定められた年次有給休暇を職場のみんなに迷惑をかけるとして消化しえないという現象であろう。
さて,このような社会関係が,日本近代における資本主義化に与えた影響は大きい。擬似親族関係でしばることによって,寄生地主制は安定化をもたらされ,高率の小作料を地主の手元に集め,これが産業資本に転化された。また工場では,職工の親方子方関係を利用して,親方請負制による低賃金・長時間労働・労務関係費の引き下げが可能とされた。資本制的生産関係に未発達の日本が資本主義列強に対抗するために,機械工業を導入する(技術の近代化),地租改正をする(形式的にしろ土地所有権の近代化)が,資本力の弱さをカバーするために旧来からの社会関係を温存・再強化する(社会関係の非近代化)というパラドックスが生じた。そしてこのパラドックスによって急速な資本主義化をしたといえる。この点を,先に見た第一の視点からどのようにとらえなおすかは,今後諸外国との比較を含めて考えられなげればならない課題であろう。
さて,上に見たような資本主義化は,国内における市場を狭め,海外に市場を求めざるをえないこととなった。すなわち,近代日本の植民地支配,中国への侵略は,この国内市場の狭さを原因の一つとしている。しかし,近代日本の大陸侵略政策は,このような経済的要因のみで行われたとはいえない。朝鮮に対する開国を要求して軍事力を発動した1875年(明治8)の江華島事件をはじめ,1894年の日清戦争期に至るまで,日本の産業資本は未だ植民地市場を必要とするほど大きくはなっていない。また日露戦争後の南満州経営も資本力の弱さを露呈している。むしろそこに働いた衝動は,「脱亜入欧」という言葉に象徴されるように,西欧の植民地帝国に対抗し,肩を並べたいという変形した「攘夷」意識であり,「蒙昧なアジア」を覚醒させて西欧に対抗する勢力となろうというアジア主義へ連なるものであろう。いわゆる日本の軍国主義は,ヨーロッパにおけるミリタリズムと異なっている。日本ファシズムの理論家として,高度国防国家の構想者として知られている石原莞爾にしても,彼の世界最終戦構想には宗教者的色彩が濃厚である。〈八紘一宇〉という『日本書紀』の言葉が国家神道下の日本で独自な成長をとげた。尊皇攘夷というナショナリズムが生んだ鬼子が軍国主義に成長した。ウェスタン=インパクト下で行われた日本の近代化,そして日本社会には西欧と異なる社会関係と論理があることを認識しなければならないであろう。