●近世社会(日本) きんせいしゃかい
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【日本の近世】日本近世史の研究は,『大日本古文書』『大日本古記録』『幕末外国関係文書』等からもはずされ『国史大系』では徳川実紀を除いては対象外となっている。その上日本の古文書学も古代・中世文書のごとき一枚文書を中心に編成されたためか,江戸時代・徳川時代を対象とする学問は比較的活発となっている。もともと時代区分においても近世というのは,ルネサンス(文芸復興)との対比において考えられたためか,安土桃山ルネサンス論とか元禄ルネサンス論との関わりで,近世の成立が考えられた。したがって内田銀蔵の『近世の日本』『日本近世史』等がその先駆的なものであり,原勝郎の『日本中世史』の成立と前後して成立したものである。その場合最も尊重されたのは人間尊重の風潮のごとき,人間主義の存在の明確化に求められた。そうした考え方に立って,中世末からそうした胎動が生まれて来たとの一休の『狂雲子』の存在等がそれを証明するものということになる。さらに経済史の発展は経済発展段階だけでなく,古代・封建・資本制の発展を規定づけ,マルクス主義経済学説の紹介が,その点をいっそう厳格に考えさせることとなった。とくに日本封建制の構造的特質を明確にすることは回避できぬ問題となり,その独自的展開,特殊性の把握を対比して研究する方向を打ち出した。その際,封建制を土地所有の封建的形態,封建的土地所有を基本とする社会構成体と考える。その中で独立自営農民=封建的小農の自立が問題となる。土地生産力に関連して農具,とくに労働生産性を飛躍的に発展させたドイツなどの特殊性の評価に対し,日本の農業技術は,千歯扱・土臼・唐箕・千石どおしなどのごとく脱穀調整過程での改良・進化にすぎながったこと,そのため民富の形成がのぞみえなかったことなどをあげている。
また近世を幕藩体制と規定することが戦後になって一般化し,これを封建制の一段階としている。法制的立場では従士ないし家士制をとり,恩貸制および恩給制の上に立ち,その保障の代償として忠節の義務をつくす,封土授受に結ばれた主従関係である。この点については主従道徳が成立している。
兵農分離と石高制の二つは幕藩制の固有の原理をつらぬく重要な指標である。兵農分離は,[1]小農民自立に対立する地主層の封建家臣化,[2]士農工商身分秩序の形成,[3]都市と農村の地域的社会的分離である。石高制は,知行制が石高によって表現されるとともに地代搾取の基準となり,軍役の基準,幕府と大名・大名と家臣の主従関係の基礎となったこと。それとともに江戸幕府権力そのものが国家的権力として成立したことである。いいかえると,兵農分離と石高制を縦軸とし,鎖国体制の上に,封建的土地所有の編成原理を貫く,上から下への御恩を横軸にした,いわゆる改易転封権の行使によって,上位者優位を原則とした片務的主従関係を確立させている。これは鎌倉・室町幕府の権力より,より集権的であったこと,戦国アナーキーを克服したため封建制を再編したともいえ,よりいっそう集権的にしたともいわれている。そうした理解にはいろいろあるが,江戸幕府権力が西ヨーロッパの領主(国王・皇帝)に比べても,その権力がきわめて強力であることは否めない歴史的事実であるといえる。
【日本封建制と幕藩体制社会】南北朝内乱は鎌倉幕府や地頭領主制を支えた古代的要素を一掃し,旧名体制を解体させた。しかし,それにかわったものは新名主の家父長的経営でしかなく,室町幕府や守護領国制を封建社会としながら,国人層に旧名主・旧地頭のごときものとのかかわりがあった。こうした中でいろいろな争いがあり,より大規模な戦国大名が出現した。新名主層の寄親・寄子関係がつくられていく。しかし,名主体制の崩壊もあり,封建小農民という自立したものをそのまま開花することもできていない。その中で新名主層上層は戦国大名家臣団にくみこまれている。太閤検地と兵農分雄はその中で小農の自立をすすめる政策の一つとなる。先進地帯では小農自立を具体化させ,占有耕作権をみとめた。後進地帯では名主職所有者が検地名請人となり,小農は分付となる。後進地帯の旧族大名は新名主上層の武士化,土産過程の分離が完全にできず,小農の自立化もすすんでいない。
しかしそうはいうものの,戦国末期から幕藩体制領主制展開期の間に耕地面積は拡大し,一大開発時代を迎えている。その耕地の激増は自家労働力を有効に投下ができ,夫役労働に依拠する農奴主経営を解体して,小農自立をさせたこと,乾田惣備・二毛作可能によって小農の自立をいっそう促進する政策となって単婚小家族の労働力を中核とする本百姓体制が安定したことによるのではあるまいか。それは単に用水灌漑土木技術のみではない。築城技術においても鉱山開発技術においてもである。もちろん,その最たるものは用水灌漑土地技術である。新田開発の力である。その上に日本農業は集約化・多面化の発展方向,施肥農業,とくに自給肥料幹源により山野にそれを仰ぐ形をとっている。
【黄金の国・日本】マルコ=ポーロのいう黄金の国「ジパング島」(日本)として日本は世界に有名をはせた。これは東南アジアのどこかの国の噂によると考えるが,15〜16世紀ごろまでの日本は金銀の大量生産地帯である。この時代のわが国には金銀を産出する鉱山が数百カ所もあった。有力な戦国大名は金銀山を領有している。伊達・武田・後北条・上杉・毛利・島津がそれである。戦国大名の勝負を決めたのは鉄砲で3,000挺の鉄砲とは小型の六匁玉銃米9石,30匁玉銃米40石であったという。1石4万円であるとすると小さいもので10億余,48億ということになる。彼らがいかに金銀に執着し,それを直轄しようと考えたかがわかる。徳川家康が天下統一のため,豊臣秀頼の大坂城をせめたのも,大判2万8,000枚の魅力にとりつかれたことにもある。
日本の金銀は国内的にも狙われたものであるとともに,世界の探検家が日本へ来た。宣教師のごとき顔はしているが,その富の真相を知りたかったとも考えられる。1612年(慶長17)イスパニア(スペイン)の使節ビスカイノは金銀島探検の内命を受けて来たものである。ただ彼らは日本をメキシコ・ペルーのようにするつもりはなかった。しかし日本の指導者は警戒して心を許さなかった。彼らが日本侵略の意図をもっていると警戒し,自分たちは貿易上以外の利益は期待しないという態度をとった。それにはキリスト教の布教活動に危険を感じ,1587年(天正15)禁教令を出し,翌年には長崎からヤソ教徒を追放している。この方針は江戸幕府にもうけつがれ,中国船以外の外国船は九州の平戸と長崎に限り,やがてイスパニアとの通交を禁じている。キリスト教禁教はいよいよ強められ,1633年(寛永10)奉書船以外のわが国貿易の海外渡航を禁じ,在外5年以上の日本人の帰国も禁じ,翌年(1634)には出島をつくらせ,1636年に完成,日本人海外波航も禁じ,在外日本人の帰国を禁止している。
【日本近世社会の時期区分】[1]徳川政権の確立期,[2]寛永期の幕府権力成立期,[3]寛文〜元禄期において地主知行制否定,俸禄制の確立期,[4]享保期,[5]宝暦〜天明期,[6]文化文政期,[7]天保期,[8]幕末開港期,[9]文久期,[10]慶応期と区分することが可能である。その間に寛政期を入れた方がよくわかりやすいと考える。
文化史的にみると,寛永文化・元禄文化・宝暦〜天明文化・化政文化・幕末文化と時代区分も可能と考える。この時代は将軍とミカドとの関係が,将軍中心の近世国家秩序の貫徹がはかられていった。国替転封した大名には「私」「私領」「ひいき」を否定して「御法度」「御用」「御為」を強調して,公儀としての将軍の力による秩序を迫っている。そのために給地を否定し,より公儀権力の基盤を強め,天下の民を公儀百姓とさせている。将軍(タイクン)として国家的戦勢として各国に国役を課している。天皇は宝位の実体を失なっていたが,それが宝暦〜天明期より,とりもどす方向づけが生まれてくる傾向となる。その面からの意義づけも必要である。
〔参考文献〕大石慎三郎『江戸時代』1977,中央公論社
藤野保『日本封建制と幕藩体制』1983,塙書房
芳賀登「近世国家における天皇と幕府」(歴史公論107号)