50音順    検 索

●禁書(日本) きんしょ

アジア 日本 AD 

 日本における禁書の法令はすでに律令にみられ,天文・陰陽の書,六韜三略などの兵書,道教関係の占いの書などは禁書とされ,私蔵・習読が禁じられていた。これらの書物が予言や異端の言説に用いられて民間の妖言・流言をあおり反乱に結びつくことを恐れたからである。禁書政策が文化の展開に大きな影響を与えたのは江戸時代以後である。江戸時代に禁書の名称でとくに厳重に取締られたのはキリスト教関係書である。ほかに出版業・書物流通の発展に対応して,政治批判の書物や風俗を乱すものとされた書物なども絶版・売買禁止に処されたので,それらも禁書に含めて以下に記述する。

【寛永の禁書令】幕府はキリスト教禁止政策の徹底を期して,中国船が舶載した書物のうち,イエズス会宣教師の漢訳洋書にはキリスト教に関するものがあるとして輸入を禁止した。すなわち1630年(寛永7),マテオ=リッチの『天主実義』『二十五言』,アレーニの『万物真言』『弥撤(みさ)祭義』などの教義書その他計32種の書物を禁書に指定したのである。以後,長崎会所書物目利(しょもつめきき,のち書物改役)が置かれ,代々長崎聖堂の向井氏が任ぜられ,唐船持渡書(とうせんもちわたりしょ)の厳重な検閲が実施された。1720年(享保5),洋書輸入緩和の措置がとられ,キリスト教に関係のない科学技術書や地誌の輸入が許された。

享保の出版統制令】寛永以後,とくに元禄時代前後の出版文化の発展に対して,幕府は1722年(享保7),出版統制令をだした。[1]みだりなる儀や異説の書いてある本,[2]好色本,[3]人々の家筋先祖のことを書いた本,[4]作者・板元の実名が奥書きされていない本,[5]将軍家のことを書いた本,これらの書物の刊行・売買は禁止された。翌1723年には心中物の刊行・上演も禁止された。この享保の出版統制令は幕末まで出版統制の基本として受け継がれ,寛政の改革ではとくに一枚絵(読売や浮世絵),天保の改革では蘭学翻訳書の出版統制が強化された。

筆禍の事例】政治的社会的事件の記述や批判は,すべて[1]のみだりなる儀・異説の書とされて禁圧された。たとえば宝暦の郡上藩の百姓一揆を「森の雫」と題して講釈した馬場文耕は獄門に処され,その著書『宝丙密秘登津(ほうへいみつひとつ)』『頃日全書』(ともに将軍・大名・大奥の内情を暴露)などは書本(写本)だが禁書となった。林子平の『海国兵談』も異説の書として絶版に処され,1808年(文化5)には,ロシアの接近と北方紛争を書いた書本『北海異談』が禁書となり著者は獄門に処された。[2]の好色本の禁圧は改革政治の風俗取締りと関連してなされることが多かった。とくに1791年(寛政3)の山東京伝の洒落本3部の絶版,1842年(天保13)の為永春水人情本柳亭種彦の合巻『偐紫田舎源氏』の絶版などは有名である。また好色浮世絵の摘発もしばしば行われ,華美で高価な浮世絵・諷刺画の取締りも行われた。[3]の人々の家筋先祖のことを書いた本では,『太閤記』『信長記』など,家康の名や大名先祖などがでてくるものは禁圧され,お家騒動の物語も出版はできなかったし,淀屋闕所事件のような民間の事件も出版は禁じられた。こうした有様であったから,将軍家のことがでてくる書物の刊行はとくに厳重に監視され,たとえば1841年(天保12),『泰平年表』ほか2点を刊行した幕臣大野広城は幕府内情を出版したかどで処罰された。

【明治以降の出版取締り】明治に入ると新聞紙条例出版条例などで取締られ,1893年の出版法,1909年の新聞紙法(いわゆる言論二法。1945年に適用停止,1949年に廃止)で完備された。政体の改変・国憲紊乱・安寧秩序紊乱の出版物の徹底した抑圧方針がとられ,内務省管轄のもと厳しい検閲体制がしかれた。昭和の軍部支配の進行とともに強化され,たとえば,1934〜39年の間だけでも4,234件の発売頒布禁止処分がなされている。戦後,言論二法は廃止されたが,連合軍占領政策により,軍国主義図書の発行が禁止された。現在,憲法によって言論・出版の自由は保障されているが,刑法175条・関税定率法などによって猥褻(わいせつ)文書の規制が行われている。

〔参考文献〕伊東多三郎『近世史の研究』第一冊,1981,吉川弘文館

今田洋三『江戸の禁書』1981,吉川弘文館

畑中繁雄『覚書昭和出版弾圧小史』1965,図書新聞社