●禁書(中国) きんしょ
アジア 中華人民共和国 AD
刊行または所蔵を禁止された書物のこと。国内の思想対策・安寧秩序の維持・軍機の保護などのため王朝が採用してきた政策の一つであるが,思想・言論の自由に対する弾圧手段ともなるものであった。中国では,印刷術が世界で最も早く発明され書物がよく普及したので,禁書も早くからしばしば行われた。その最も古い例が秦の焚書で,最後が清の禁書である。秦の始皇帝は,思想を統一して治安の推持をはかるため,宰相李斯の建策によって,前213年,秦の歴史に関する記録・医薬・占卜・農業の書を除いて,秦の記録以外の諸侯の史記『詩経』『書経』,諸子百家の書などをことごとく焼き,民間にその所蔵を禁じた。これが有名な始皇帝の禁書であり,この禁令は挾書律といい,前漢初めの恵帝のときの前191年まで残っていた。次に漢代になると,民間に革命を予言する讖緯(しんい)説がおこり,後漢時代には緯書が流行して多くつくられ,ときにはこれが野心家に利用されて人心を不安に陥れ,内乱の原因となるというので西晋の武帝以後,歴代の皇帝はしばしばこの緯書に対する禁令を出した。なかでも,隋の煬帝は,これに対して厳しい態度で臨み,使者を四方に派遣して緯書を捜し出して焼いた。このため,今日伝わる緯書はきわめて少ない。また,仏教と道教とのあいだに,魏晋以来宗論が激しくなると,たがいに自己の立場を有利にするために偽経がつくられた。とりわけ『老子化胡経』の出現は,すこぶる仏教徒の立場を不利に陥れたが,唐の高宗は両者を対決させその結果,化胡経が偽作であることが証明され,その焼却を命じた。唐の僧法琳の『辯正論』『別伝』も,国家を非難するものとして禁ぜられた。また隋唐時代に行われた仏教の一派の三階教も異端邪説として,隋の文帝から唐の玄宗にいたるまでたびたび弾圧を受け,その経典は厳禁された。以上の諸例はいずれも,主権者からみて人心の惑乱を防止するための政策であり,唐代までは,書物は書写されていたので,その数も少なく,禁書政策もたまたま行われたにすぎなかった。ところが,宋代になると,印刷術が普及して多くの書物が常時刊行され,書物の社会・人心に与える影響が急激に増大したので,禁書が再び行われるようになり,禁書ということばも普遍的に用いられるようになった。禁書の対象となったのは『天文図讖』など前代の讖緯の書の系統を引くもの,実録・正史・会要など朝廷の政治の機密にわたる史書『武経概要』など,軍機に関する兵書,人民に訴訟上の知識を与えるおそれのある判例集などの刑法書,および異端邪説とみなされた書などである。なお宋は遼・西夏などの諸国と対立したので,国防上の理由から儒仏の経書以外の書物,ことに史書の国外持ち出しを厳禁し,これを書禁と称した。また宋代には党争が盛んで,党争に破れて姦党と名づけられた側の著述や文集が禁止され,司馬光の著名な『資治通鑑』も危うく版木を毀されそうになり,神宗の序文がついているので免れたというほどであった。元明時代は禁書は大いに緩和され,出版は比較的自由であったが,次の清代になると,大規模な禁書政策を行った。この政策を実行したのは乾隆帝であり,彼の一生の文化事業である『四庫全書』の編さんも,実は各地の書物を集めて思想の取締りをするためであるといわれ,現に書物と版木の焼却を命ぜられたもののリスト『全燬書目』,一部分訂正削除を命ぜられたものの『抽燬書目』がつくられ,書物の総数は約3,000種,7万〜8万部に達した。清は満州族が中国を支配した王朝であったので,中国人の反満思想を一掃するために,こうした禁書政策を推し進めた。しかし,禁書のなかには早くから日本に伝わって逸亡を免れたものも少なくなく,これが清朝末期に来日した留学生の目に触れ,彼らに革命思想を鼓吹するという皮肉な結果を招いた。〔参考文献〕宮崎市定「禁書と書禁」『アジア史研究2』1959,東洋史研究会