●禁教令 きんきょうれい
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キリシタン宗門は,その排他的絶対神信仰・人間平等観などによって,三教一致的思想統一を図る一方において,自己神格化をめざす封建的絶対君主の,織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などには許容さるべくもなかった。信長時代はなお全国統一者ではありえなかっただけに,キリシタン宗を仏教に対立する勢力として利用したが,晩年に総見寺を建立,自己を最高神として尊信するよう下命している。それが秀吉になると一段と強められてくる。九州征討まではなおキリシタン・ポルトガル勢力の利用を図っているが,九州征討の終了とともに,1587年7月23日(天正15.6.19)伴天連追放令を発した。ただし前日付けの覚書ではキリシタン宗門の本願寺的性格を挙げて給人らの信仰を抑制したものの,なお一般百姓は自由であるとした。そこには本願寺寺内に相当というより,それ以上に彼の知行体系か逸脱する危険な在在として意識したからに違いない。ところが,この覚書が教会側に通達された形跡がなく,ただ伊勢神宮に3種の写本が伝えられていることは,いささか問題である。19日付けの覚書は教会側記録にも詳しく伝えられている。その第2条に〈国郡在所知行尊給人に下され候義は当座の事に候〉とあり,知行人は一時的に知行支配をゆだねられた一地方官にすぎないという集権的封建体制の宣言であったともいえる。すなわち問題を含むキリシタンの排除とともに,豊臣絶対支配体制の確立を図った一石二鳥的政策であったのである。そして第3条に伴天連は〈二十日の間に用意仕り帰国すべく候〉と命じており,一般に伴天連追放令と称されている。が,この時,病気の伴天連など若干がマカオに出航しただけであり,秀吉の法令でこれほど軽視されたものは,他にあるまいと思われる。キリシタン・バテレンらは表面的活動を控えたが,1590年(天正18),天正遣欧使節の帰国,彼らを率いたイエズス会巡祭師ヴァリニアーノがインド副王使節として秀吉謁見に成功したことと相まって,むしろキリシタン教勢は栄え,いわゆる南蛮文化の全盛期を迎えることとなった。しかし,秀吉は天正禁令は依然として維持し,スペイン系フランシスコ会士の渡来,それに伴うルソン(フィリピン)交渉の決裂,具体的にはサン=フェリーペ号事件と並行してフランシスコ会系を主とする弾圧に踏み切り,翌1597年2月5日(慶長1.12.19),日本26聖人の殉教を招くにいたる。これに対し徳川家康は,ルソン・ノビスパニヤ(メキシコ)・スペインとの通商を図り,フランシスコ会士と接触。また朱印船貿易など,貿易の主導権を握る方策を進め,糸割符制など長崎のポルトガル貿易の統制を図るとともに,キリシタン宗門の取り締まりを漸次進め,1612年(慶長17)の岡本大八事件を機として思想統制を強化。同年9月2日(陰8.6)全国に〈伴天連門徒御制禁也〉と令し,1614年2月1日(慶長18.12.23),南禅寺崇伝に命じて起草させた,いわゆる「排吉利支丹文」すなわち伴天連追放令を秀忠将軍の名において全国に布達した(『異国日記』同日l条)。「属文階梯」などとも呼ばれているが,その意は不詳。いずれにしても三教一致思想により日本は神国・仏国であり仁義の国であるのにキリシタンはそれらを破壊し,改法に反する侵略的・革命的宗門であり,邪怯であると規定。外人宣教師だけでなく高山右近はじめ主立ったキリシタン信徒らはマカオ・マニラなどに追放された。ここにキリシタン禁制を頂点とする思想統制と,糸割符制を中心とする貿易統制・経済統制の根拠づけが全うされ,いわゆる鎖国政策の基礎が確立されたのであった。それは幕藩体制の確立と維持のための必須条件であった。徳川氏の“祖法”と称されたのも当然のことである。〔参考文献〕海老澤有道『キリシタンの弾圧と抵抗』1981,雄山閣。