50音順    検 索

●金 きん

アジア 中華人民共和国 AD 

 東部満州におこったトゥングース系女真族の樹立した国家。遼と北宋を滅ぼし,12世紀から13世紀にかけて約100年間,中国北半部を領有した征服王朝。1234年,(天興3)モンゴル帝国のオゴタイ=ハンによって滅ぼされた。女真族はのちに清朝を樹立したが,開祖ヌルハチは金にちなんで国号を後金国としていた。

【政治】女真(女直)族は最初渤海に属し,渤海滅亡後は契丹の支配下に入った。このうち満州南部に移され契丹の戸籍につけられて2世紀近くその直接的支配を受けたものが熟女真で,戸籍につけられず東部満州の森林地帯に残ったものが生女真である。やがて生女真のなかで,今の黒龍江省阿城県の按出虎水流域を本拠とする完顔部が有力となった。完顔部酋長阿骨打は契丹の苛政に苦しめられてきた女真族を統一して独立し,1115年(収国1)皇帝位につき国号を大金とした。新興の金軍は遼軍を圧倒し,1125年(天会3)には遼の天祚帝を捕え遼朝を滅ぼした。なお,西方に逃れた遼の宗室の耶律大石は,中央アジアに西遼を建国し,契丹人政権を維持した。これより先,遼から燕雲16州を奪回することを熱望する宋朝は,新興の金と結び遼を夾攻する戦略をたてた。1120年(宣和2・天輔4)宋がそれまで遼に与えていた銀絹50万両匹を金に与えること,金は西京を攻め,宋は燕京を攻めることで宋金同盟が成立した。しかし,宋軍は燕京攻略に失敗し,結局,阿骨打率いる金軍が燕京を攻略した。ただし,阿骨打は漢地の占領を好まず,燕京の職官・人戸などは北方に移送し,燕京以下6州の地は,歳幣・代税銭・賠償の兵餉の提供を約束させて宋側に割与した。ところが宋は約束を履行せず,金の叛将を保護したりしたので,太祖阿骨打を継いだ太宗呉乞買は,1125年,南伐の軍をおこした。首都開封を包囲された宋朝は,金側の過重な要求を受け入れて金軍を北帰させた。しかし,各地から勤王軍が集まってくると,宋側は再び反金的態度をとった。そこで再侵入した金軍は1126年(天会4)閏11月に開封を攻略した。金は1127年(大会5)3月,宋の前太宰張邦昌を大楚皇帝とし,黄河以南の地を与え傀儡国家を組織させた。そして宋の上皇徽宗・皇帝欽宗以下の宗室を根こそぎ金の本拠地に拉致した(靖康の変)。ここに宋朝はいったん滅亡した。幸い,徽宗の第9子康王趙構が北従を免れ,1127年(建炎1)5月,勤王義勇軍勢力に推されて即位した。高宗である。再興された宋朝を南宋という。金軍は江南に拠り,杭州臨安府を行在とする南宋政権を滅亡させる実力がなく,南宋側も河北を奪回できなかった。このため,約l世紀間,淮水を国境とする南北朝時代が現出した。なお,1142年(天眷2・紹興10)の金宋和議成立によって,宋帝は金帝の臣と称することになった。すでに,西夏・高麗は金に臣事していたので,ここに金は東アジアに君臨する王朝たるの名目を獲得したのである。さて,金朝は最初,張邦昌に黄河以南を支配させようとしたが,高宗即位後,張邦昌が高宋のもとに逃帰したので,張邦昌の楚国は短時日に消滅した。その後,1130年(天会8),金は劉豫を大齊皇帝とし,山東を含む黄河旧河道以南,淮水以北の地と,陝西および甘粛の東部をえた。しかし,1135年(天会13)に即位した煕宗は皇帝権強化の政策を実施し,1137年(天会15)には劉豫の齊国を廃止し,当該地方を全国皇帝の一元的支配のもとにおいた。煕宗は,また,宗室諸王勢力を抑えるために,国初以来の女真の制度勃極烈制を廃止し,中書・門下・尚書の3省を設けるなど漢制を採用し,中国的な支配をめざした。そして漢地支配を安定させるために,女真人を彼ら固有の猛安・謀克という組織のまま漢地に移住させた。猛安・謀克制は太祖阿骨打の実施した軍事行政制度である。女真人を300戸を単位とする謀克,10謀克よりなる猛安に組織し,平時にはその長たる猛安・謀克のもとで狩猟と農耕に従事させ,戦時には壮者皆兵の原則によって各単位ごとにその長たる猛安・謀克の指揮下に従軍させた。煕宗と4代皇帝海陵王の時代を通して漢地に移住させられた女真人の数は,100万を超える。1149年(天徳1),煕宗を殺して帝位についた海陵王は,漢文化を重んじ,漢化政策をさらに徹底させ,多数の宗室諸王や女真人大官を殺し,独裁君主権の確立をはかった。そして彼は上京会寧府から燕京への遷都を断行し,燕京を中都と改め中原国家たるにふさわしい体裁を整えた。やがて海陵王は南宋を滅ぼして中国全土を統一する野望をもち,南伐のために国力を無視した大動員を行った。このため,かねてからモンゴリアの遊牧民を牽制するために西北路に配置されていた契丹人が,強制徴兵をきらい反乱をおこした。一方,海陵王の従弟にあたる東京留守烏禄は,1161年(大定1),海陵王南征の隙をついて遼陽で即位した。世宗である。腹背に敵を受けた形の海陵王は揚州で部下に殺され,混乱は世宗が収拾した。29年間在位した世宗は,女真中心主義によって金朝国家体制の建て直しをはかった。とりわけ漢地支配の根幹ともいうべき猛安・謀克の保護につとめ,彼らを貧困から救済するための土地制度を実施したり,彼らが漢文化に親しんで惰弱化しないように女真文化作興運動を行った。世宗を継いだ章宗も女真中心主義を踏襲した。しかし,世宗・章宗の女真族保護政策は,土地拘括などをめぐり漢人の不満を招いた。その上,章宗の時代,黄河氾濫による耕地喪失と治水工事,遊牧民に備えるための界壕建設,宋金開戦による軍費支出などが重なって財政が逼迫し,しだいに国運が傾いていった。次の衛紹王治政の1211年(大安3),チンギス=ハンが侵入してきた。3軍に分かれたモンゴル軍は黄河以北の大部分の諸城を攻略し,首都中都を包囲した。衛紹王を継いだ宣宗は1214年(貞祐2),和を乞いモンゴル軍を北帰させた。ところが宣宗が首都をベンキョウ※注1※に遷したことを口実にモンゴル軍が再侵入した。1215年(貞祐3)には満州と中都を失い,また河北・山東では紅襖軍などの民衆叛乱軍が活動し,さらには宋金戦争も再発し,金朝は河南を保持するのが精一杯という状態に追い込まれていった。ただ,チンギス=ハンが中央アジアのホラズム遠征にモンゴル軍の主力を割いたために,漢地におけるモンゴル軍の圧力が弱まり,金朝は1234年まで命脈を保つことができた。

【経済】金朝の財政政策においては,税法・銭幣の法・専売制・カクジョウ※注2※の制が重要である。私田に対しては夏税秋税が課せられ,麦・菜・草を納めさせた。夏税は畝ごとに3合,秋税は畝ごとに5升であった。女真人は牛頭税を納めた。牛頭税は1125年の制度では民口25,耕牛3,すき1,田4項4畝を基準単位とし,すき1具につき粟1石を納めさせた。のち牛1頭につき3斗に改められた。この税は夏税秋税に比して税率がはるかに低くしかも,国家財政に繰り入れないで女真戸の備荒貯蓄を目的としていた。このほか,世宗は総合的財産税である物力銭を創設した。これは海陵王の対南宋戦争と契丹人の叛乱鎮圧のための出費による財政難打解を目的とした新税で,民の私有する田園・邸舎・車・家畜・樹木・現金などの財産を査定し,その多寡によって課徴した。1164年(大定4)の物力銭徴収のための最初の財産調査を通検といい,以後ほぼ10年ごとに実施された調査を推排といった。物力銭以外にも鋪馬・軍須・輸庸・司吏・河夫・桑皮故紙銭などの免役銭徴収もあった。銭幣について,金では最初遼・宋の旧銭や劉豫の齊国の阜昌元寳などを用いていた。また海陵王は正隆通寳を,世宗は大定通寳を鑄し旧銭と並用させたが,産銅に限りがあり,銅銭はつねに不足していた。そこで海陵王の時代,戸部尚書蔡松年は鈔引法を復活させ,交鈔を発行して銅銭と並用させた。100文から10貫にいたる10等級の大小の紙幣が発行された。章宗期以降は財政難打開のために大量の交鈔を発行し,インフレーションをひきおこした。そして下落した交鈔の信用を回復するために新交鈔を発行する,悪循環がみられた。金朝は交鈔制度の維持につとめ,滅亡直前にも天興寳会を発行している。専売制については,金朝においても塩の専売が重要な財源になっていたことを指摘しておきたい。産物に限りのある金では,南宋との貿易も重要であった。両国の国境に数カ所のカクジョウ※注2※が設けられ貿易を行った。金は茶・香薬・薬物などを輸入し,北珠・毛皮・人参・絹織物などを輸出した。なお密貿易によって,南宋から米・宋銭が輸入され,金からは馬が輸出された。貿易総計では金の輸入超過であった。

00