●義和団事変 ぎわだんじへん
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19世紀末,植民地化の危機に直面した中国の華北諸省でおこった反帝国主義的な大衆運動。当時排外主義的であった清廷の保護を受け,キリスト教会の焼毀,宣教師・教会の殺害,電線・鉄道の破壊などを行い,1900年(光緒26)6月に東交民巷にある各国大公使館を包囲攻撃した。こうして,清朝と帝国主義列強との武力衝突が生じ,8月に連合軍が北京を陥落させて事変は終息へむかった。その結果,列強の共同管理下に置かれた半植民地体制の完成,清朝の権威・統制力の失墜,保守主義・伝統主義の勢力喪失と革新進歩的主張の高潮などの大きな影響を与えた。【背景】甲午中日戦争(日清戦争)の敗北の結果,清の弱体が露呈されると,列強は中国沿岸各地の租借・割譲や内地の鉄道・鉱山の利権を獲得し,中国は分割・植民地化の民族的危機に直面した。これに対して統治階級内部からは改良主義的な変法運動がおこったが,一方,中国民衆自体の担ったものとして義和団運動が発生した。当時山東では,キリスト教会と一般農民とのあいだに村廟の費用の寄付や教会の不動産に関しての紛争が種々存在した。さらに教会勢力をたのんで横暴な振舞いをする教民も多く,キリスト教が帝国主義列強の侵略の象徴として敵視されており,大刀会の仇教活動に代表されるようなキリスト教に対する反感が民衆のあいだに広く存在していた。また1897年(光緒23)ドイツが膠州湾一帯を占領し,軍港と鉄道(膠済線)の建設を始め,さらに鉄道沿線で鉱山などの開発事業を行った。これらの開発は土地の強制買収や水利権の侵害,風水思想を犯すものであったためドイツ人に対する反感は強められた。その他,外国製品の流入による農村経済の動揺,蒸気船輸送による漕運の変化以後大運河沿いにひろがった失業と不景気,華北での相つぐ天災による流民の発生などの社会的要因も指摘されるが,伝統的観念をその民衆思想の背景に保持していたことからもうかがえるように,未知の異文化との接触に対する反作用という性格も指摘できる。
【組織】義和団の起源については,当時呉橋知県であった労乃宣の『義和拳教門源流考』によれば,1808年(嘉慶13)の会党禁止の上諭にみえる義和拳・義和門がその前身で,ともに古来の反権力的な秘密宗教結社「白蓮教」の支派であるという。しかし,現在では諸説があり,白蓮教に源があるという説,あるいはそのなかでも拳・棒の修練を中心とする宗教組織内の「武場」に起源をもつとする説や,大刀会・梅花拳などの武術的秘密結社に源流があるとする説,これらに対して秘密結社が発展して義和団を形成したのではなく郷村自衛組織が発展したと考える説などがあり,さらに研究の余地が残されている。組織の形としては,各地にそれぞれの壇口・壇場・拳廠を基本とする独立した拳団を形成したが,各壇ごとに老師・大師兄・二師兄などの首領を立て,関羽・岳飛や孫悟空などの雑多な対象を信仰し,拳・棒を修練して呪文を念じれば神がつき,刀や鉄砲にも傷つかない(降神附体・刀槍不入)などと称した。また紅灯照や藍灯照という女性だけの組織も存在した。いわば義和団の名のもとに統一した組織は存在せず,ある一定の方向性をもった諸集団の総称(レッテル)としての意味しかなかったと考えられる。
【経過】義和団の名がみえるのは1898年(光緒24)4月以降であったが,1896年(光緒22)ごろから山東では義和拳や大刀会の仇教活動が活発化していた。1898年5月山東省北部から始まった義和団運動は,山東省当局が取り締まらなかったために急速に勢力が拡大した。1899年(光緒25)春毓賢(いくけん)が山東巡撫となると平原教案で大刀会を弾圧した地方官を処罰したことが拳民を保護奨励する結果となった。同年秋には〈扶清滅洋〉のスローガンが一般化し各地に拡大した。毓賢の後任袁世凱は,山東省内の義和団を弾圧して直隷方面へ方向転換をさせ,華北・東北の各地へ拡大した。1900年(光緒26)5月列強は「保護使館」を名目として北京へ軍を送り状勢は緊迫化した。当時清廷内部では,戉戌変法や光緒帝退位問題の妨害の背後に外国人がいると考えた西太后らの保守派の激しい外国人への反感があり,また剛毅のように義和団の肩入れをするものもおり,宮廷は安易な排外へ傾いた。6月初旬以来,義和団民20万人が北京に出入往来し教民への迫害は公然たるものとなった。6月10日外国人に親和的な慶親王エキキョウ※注1※らに代わり,保守派の端郡王サイイ※注2※らが総理衙門の中枢を占めた。同日,列強は2,000人の陸戦隊をイギリスの中国艦隊司令官セーモアに急派させたが,中途で義和団に阻まれ北京の外国人は孤立した。6月11日には日本公使館書記生杉山彬,20日にはドイツ公使ケトラーが,排外的な董福祥の甘軍により殺害された。清廷内では西太后が端郡王・剛毅らの義和団を利用して外国人を駆逐しようとする主張を採用し6月21日に列国に対し宣戦を布告した。南方諸省の督撫の李鴻章・劉坤一・張之洞らは,これに先立ち外国人の保護と拳民の弾圧をしばしば奏請していたが,宣戦の上諭を無視し列強といわゆる東南互保を協定し相互安全保障をはかった。イギリス・フランス・日本・ロシア・ドイツ・アメリカ・イタリア・オーストリア8カ国の連合軍は7月14日天津を攻略し,8月初旬2万人余の軍をもって北京へむかった。日本はこの内最大の兵力を派遣し,以後の中国大陸経略の重要な契機となった。8月14日北京が陥落,西太后は光緒帝らと西安に逃れた。連合軍はさらに兵力を増し保定や張家口・山海関方面を攻撃,ことにロシアは単独に17万人派兵し現在の東北地方を事実上占領した。西太后は西安へ逃れる途上,慶親王エキキョウ※注1※と李鴻章を全権として和平交渉を担当させた。12月末に列国側から清に〈議和大綱〉が示されそのまま受け入れられたが,なお責任者の指定・処分や賠償金の配分・支払い方法などに長い討議・調査を要し,最終議定書(北京議定書)が調印されたのは1901年(光緒27)9月のことであった。
【影響】義和団運動は中国民衆の反帝国主義運動が,封建支配階級と帝国主義侵略者とのあいだの矛盾と結びついた形で現出した。しかし,西太后の〈量中華之物力,結与国之歓心〉という上論にみられるように,列強の共同管理による半植民地体制の完成によって支配階級と侵略者の矛盾は基本的に解消された。通商条約の改訂による外国資本の進出激化は,さらに中国経済の外国の統制を容易にし,9億8,000万両という多額の賠償金の償還は1940年(民国29)までつづき中国の近代化を大きく遅れさせた。しかし,一方で義和団運動に表された民衆のエネルギーは列強に中国分割の企図の非現実性を悟らせることとなった。このあと,西太后は変法派の主張を取り入れた各種の新政を実施したが,清朝の権威はすでに失われ革命運動が盛んになっていく。1901年9月以降連合国は撤兵を開始したが,ロシアだけは撤兵をせず満州に兵力を集結させその後の日露戦争の原因となった。
〔参考文献〕野沢豊・田中正俊編『義和団運動』講座中国近現代史2.1978,東京大学出版会
廖一中・李徳征・張旋如他編『義和団運動史』1891,人民出版社
『義和団運動史討論文集』1982,斉魯書社
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