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●記録 きろく

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 史料としての記録という意味で古記録とも称する。歴史研究の基礎史料となる文献史料は,ふつう[1]文書,[2]記録,[3]典籍に分けられる。このうち[1]文書は,個人ないし役所から用件を特定の相手に知らせる書類であるが,[2]記録は,公的ないし私的な出来事を,自身の備忘もしくは後人の参考のために記し留めておく書類である。[1]も[2]も書物として纏まれば,典籍の一種にもなる。記録には広狭二義あるが,歴史学では日並の日記とはぼ同義語として限定的に使われている。日記という用語にも広狭二義あり,中国では元来,日記は実記(事実の記録)すべてを含むようであるが,日本では日々の記録(日並記。その別記・部類記も含む)をさすことが多く,必ずしも実録性を伴わない仮名日記などは文学作品として別途に扱う。記録としての日記は,記主の身分によって,皇室・公家・武家・社家・寺家・商家・農家・文人・軍人・婦人などの日記に分けることもできるが,むしろ内容の性格によって,公日記私日記に一応大別できる。

公日記】これは[1]公務日記,[2]家職日記,[3]側近日記,[4]業務日記などに細分しうる。[1]としては,平安時代の宮廷・官庁における「内記日記」「外記日記」「殿上日記」蔵人「近衛陣日記」「検非違使庁日記」など,室町以降の宮廷における「御湯殿の上の日記」「議奏日記」や幕府における「結番日記」「公武御用日記」「幕閣役職日記」および「代官所日記」「藩庁日記」「村役人日記」などがある。[2]としては,官務(弁官事務)の壬生家(小槻氏),局務(少納言局外記事務)の押小路家(中原氏),神祇伯の白川家,天文陰陽道の土御門家など,官職を家職として世襲した家々の日記がある(社家や寺家の日記もこれに近い)。[3]としては,「山科家礼記」(筆者=山科家の雑学)・「天正日記」(筆者=本願寺門主の右筆)・「静寛院宮御側日記」(筆者=皇女和宮の御側女房)などがある。[4]としては,公家・武家・社寺などで下役・当番などがつけた事務的な日記や,富商・豪農などがつけた家業の日記などもある。このうち,[1]の内記や外記の日記については,大宝養老の令文に内記の職掌として「御所記録」のことが明記され,弘仁年間の宣旨に外記も内記とともに「御所儀例」を録し「日記」に載せるべきことが示されている。

私日記】これは,古く『日本書紀』所引の「安斗智徳日記」「伊吉博徳書」などや,748年(天平18)具注暦の書き入れ(正倉院文書裏書)などを例に挙げてもよいかもしれないが,確実な事例は平安以降をまたねばならない。そのうち,注目すべきは,宇多・醍醐・村上・一条・後朱雀・後冷泉・後三条・白河・堀河・後鳥羽・順徳・後嵯峨・後深草・後宇多・伏見・後伏見・花園・光厳・光明・崇光・後光厳・後円融・後小松・後花園・後柏原・後奈良・正親町・後陽成・後西・霊元・桜町・桃園・後桜町・後桃園・光格・孝明の36代にもわたる天皇自身の日記(宸記)が,写本ないし逸文として今に伝わる。これらは,醍醐天皇皇后=藤原穏子の『太后御記』や同皇子=重明親王の『吏部王記』など,あるいは摂政・関白・太政大臣以下の公卿殿上人(公家)の日記と同じく,公的地位に伴う朝儀典礼などの公的記事が大部分を占めている。しかも重要な儀式などは「別記」に詳細され,また年月日順の記事を通覧しやすくするため,本人か後人の手で,年中行事や特定の項目によって記事を分類配列し直した「部類記」も盛んにつくられ活用されている。なお,玉井幸助著『日記文学概説』(昭和20年刊。同57年,国書刊行会復刊)の「支那日記年表」には約550種,「皇国日記年表略」には約900種の日記(逸文を含む)が列挙されており,近刊の『日本史総覧』(新人物往来社刊)第一巻の「史籍年表」,『国史大辞典』(吉川弘文館刊)第4巻の「記録年表」「記録目録」も至便である。

〔参考文献〕和田英松『国史国文の研究』1925,雄山閣

和田英松『皇室御撰の研究』1933,明治書院

玉井幸助上掲書,斎木一馬「古文書と古記録」『日本古文書学講座』総論編,1978,雄山閣