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●キリスト教公認 キリストきょうこうにん

ヨーロッパ ヨーロッパ AD313 

 313年“ミラノ勅令”によりキリスト教は公認されたが,すでに311年ガレリウスが病床において追害令を撤回し寛容令を布告したとき,キリスト教公認への道は始まっていた。しかしなお政治情勢は流動的であった。東方ではガレリウス寛容令を遵守したリキニウスとその反対者マキシミヌス=ダイアとのあいだに,また西方ではキリスト教を擁護するコンスタンティヌスとその弾圧者マクセンティウスとのあいだに覇権争いが進展していた。この対決で勝利をおさめたのはいずれもキリスト教擁護派であったが,闘争の宗教的性格はとくに後者において著しかった。その当時,マクセンティウスを攻撃するコンスタンティヌス側は相当不利な立場に置かれており,さらにシビラの託宣マクセンティウスの勝利を予言していた。しかし,312年,ティベリス河にかかる“ミルウィウス橋の戦い”に勝利をおさめたのはコンスタンティヌスであった。しかもこの勝利にはある奇跡的事件が関連していた。エウセビオスは『コンスタンティヌス大帝伝』にそれを次のように伝えている。コンスタンティヌスは近づく決戦の日を控えたある昼すぎごろ,太陽の上に光に包まれた十字架をみ,それに〈汝これにて勝て〉という文字がついているのをみ,全軍もこれをみて驚きに包まれた。一方その夜,今度は夢のなかでキリストがこの天に現れた印をもって現れ,それを守護旗にして闘うように命じた。そこでコンスタンティヌスはこの軍旗を作成させ,キリスト(ΧΡΙΣΤΟΣ)のはじめの2文字Χ・Ρをヘルメットにつけさせるとともに,司教を招き,彼らからキリストと十字架が,死に対する勝利のシンボルであることを学んだ。こうして,この神を崇拝しつつ,暴君に対して勝利につぐ勝利を得た。この幻体験がそのまま史実であったかどうかは早急には断定できない。けれどもコンスタンティヌスをキリスト教に強く接近させたある重大な出来事があったことは認めなければならない。ともあれキリスト教を標榜して勝利をおさめた両皇帝コンスタンティヌスとリキニウスは,313年6月ミラノに会し,キリスト教を公認する“ミラノ勅令”を布告した。この勅令は異教中心主義であったガレリウス寛容令とは質的に異なるものであり,新しい時代を告げる画期的事件であった。〈……われわれはキリスト教徒に対してもあらゆる宗旨の者に対しても各人が望む宗教に従う自由を与える。すなわちキリスト教の儀式・礼拝にせよ,あるいは各人が自ら最適と感じている礼拝にせよ,それに帰依したいかなる人々に対してもその許可を拒むものではない……〉。こうした内容からも明らかなように,ミラノ勅令は宗教選択における絶対的自由を保証する宗教寛容令であり,原則的には不寛容の立場に立っていたローマの宗教政策を根本的に変化させるものであった。しかし,勅令布告当時,コンスタンティヌス自身はなお改宗(コンヴェルシオ)を体験していなかった。なお彼は,父の信仰していた不敗太陽神(Sol Invictus)信仰に関係していた。しかし,312年の奇跡的な勝利を契機として彼は急速にキリスト教信仰に傾斜していったと考えられる。ミラノ勅令は彼がこのようにキリスト教への好意をいっそう強めていく過程のなかで布告されたのであり,そこには他宗教への非難や弾圧はまったく考えられていない。皇帝の改宗時期に関しては異論があり定説はない。幻体験を強調しつつ312年とする説,337年臨終のベッドで受洗したとする説,さらにはキリスト教への帰依を連続的・漸進的発展としてとらえ,決定的時期はなしとする説などさまざまであるが,皇帝個人としての副教体験は,国家の政策に大きなかかわりをもつことは認めなければならない。この勅令はヨーロッパの歴史に決定的影響を与えたのである。

〔参考文献〕秀村欣二「コンスタンティヌス帝とキリスト教」『聖書とその周辺』1959,伊藤節書房

弓削達「所謂〈ミラノ勅令〉について」『西洋古典学研究』2,1954,岩波書店

新田一郎『キリスト教とローマ皇帝』1980,教育社