●キリスト教(日本) キリストきょう
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日本へのキリスト教の初伝について,聖徳太子のキリストに似た厩戸生誕伝説は別として,736年(天平8)景教徒来日の問題があるが,古代におけるキリスト教流布に関する史料は皆無である。一般的には戦国時代末期に伝来したカトリックが最初と考えられている。【戦国・安土桃山・江戸時代】1549年(天文18)イエズス会のフランシスコ=ザビエルが,日本人ヤジロウを案内者として日本へ伝道してから1873年(明治6),明治政府の解禁にいたるまでのあいだに日本人が受容したカトリックはキリシタンと呼ばれた。幾利紫旦・鬼利支丹・吉利支丹などの漢字で表記したが,江戸時代将軍徳川綱吉以降は諱の吉を避けて切支丹・切死丹と表記した。キリシタンは,別名南蛮宗・だいうす宗・耶蘇宗門,中国流に天主教などともいった。ザビエルは,鹿児島・平戸・博多・山口をへて上洛,のち山口で大内義隆,府内で大友宗麟の保護により布教し,2年3カ月で離日した。コスモ=デ=トルレスは,九州を中心に山口・府内・横瀬浦・口ノ津などで布教をすすめ,1559年(永禄2)ガスパル=ビレラと日本人ロレンソは,京畿の布教を始め,翌年将軍足利義輝から布教の許可を得,仏僧の反対を受けたが教線を伸ばした。おもな入信者に九州では,最初のキリシタン大名の大村純忠(1563年受洗)・大友宗麟(1578)・有馬晴信(1580)・黒田孝高(1584),京畿では,高山飛弾守とその子右近(1564),小西行長(1584)・蒲生氏郷(1585)・細川ガラシア(1587)がいた。織田信長は,1569年ルイス=フロイスを引見し,布教を許可したので隆盛にむかった。1576年(天正4)京都の南蛮寺が竣工,1580年(天正8)信長はニェッキ=ソルド=オルガンチノに対し,安土城下に教会用の敷地を与えた。1579年(天正7)巡察師アレシャンドロ=バラニャーノが来日,日本の風習に順応した布教方針を樹立した。とくに教育機関の整備につとめ,従来の初等学校以外に1580年有馬にセミナリヨ,臼杵にノビシャド,1581年(天正9)安土にセミナリヨ,府内にコレジヨを創立した。遣欧使節も計画,大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンの4少年が,1582年長崎を出帆,マカオ・マラッカ・ゴアをへてリスボンからマドリッドにいたり,スペイン国王フェリペ2世に謁見,1585年(天正13)ローマで教皇グレゴリオ13世とその跡をついだシスト5世に謁見,使命を果たして1590年(天正18)帰国した。その間信長は本能寺の変に倒れ,統一事業を継いだ豊臣秀吉は,当初教会に好意を示したが1587年(天正15)伴天連追放令を出し,イエズス会領の長崎を収公した。しかし貿易を奨励したので布教の禁止令は不徹底に終わった。1582年(天正10)の信徒教は15万人で,内訳は下(西九州)11万5,000人・豊後1万人・都2万5,000人,教会堂200カ所・宣教師75人で,1590年の信徒教は23万〜24万人であった。少年使節の帰国を契機に南蛮風俗が流行し,キリシタンは最盛期を迎え,キリシタン版も刊行された。秀吉のフィリピンに対する威嚇外交を契機に1593年(文禄2)スペイン系フランシスコ会ペドロ=バウチスタが来日,布教を始め,イエズス会と対立した。1596年(文禄5)サン=フェリペ号事件がおこり翌年(慶長1)バウチスタら26名が長崎で殉教した(1861〜62年列聖)。秀吉のあと覇権を掌握した徳川家康は,貿易振興策により当初布教を黙認したので,フランシスコ会は江戸を中心に関東・東北へ教線を伸ばし,1602年(慶長7)スペイン系ドミニコ会とアウグスチノ会も来日し布教を始めた。1605年(慶長10)信徒数は75万人。家康はスペイン領メキシコとの貿易をはかり,伊達政宗も同じ目的でフランシスコ会ルイス=ソテロの勧めで家臣支倉常長を遣欧使節として送った。1613年(慶長18)月ノ浦を出帆,メキシコから1615年(元和1)スペインにいたり国王フェリペ3世に謁見,同地で受洗,ローマで教皇パウロ5世に謁見したが交渉は成功せず,1620年(元和6)帰国した。一方,1600年(慶長5)リーフデ号の豊後漂着を契機に貿易に加わったプロテスタントのオランダ・イギリスは,カトリックのスペイン・ポルトガルの布教が日本侵略の手段であると家康に進言した。1611年のスペイン使節セバスチャン=ビスカイノの沿岸測量事件と翌12年の岡本大八事件を契機に,同年禁教令を,1614年(慶長17)伴天連追放文を出して宣教師や高山右近・内藤如安(1564年受洗)らをマニラやマカオへ追放した。西日本の信徒は迫害を逃れて東北地方へ潜伏し,海外から潜入する宣教師もつづいた。家康の死後,将軍秀忠から家光にかけて禁教は一段と強化され,逮捕者・殉教者が続出した。1619年(元和5)京都の52人,1622年(元和8)長崎の55人(元和の大殉教),1623年(元和9)江戸の55人の殉教がおこり,1624年(寛永1)ついにスペインと断交した。禁教の徹底をはかるため,寺請証文・宗門人別改・訴人懸賞・絵踏・禁書,5人組による連座・改心誓詞などの諸制度が行われた。1637年(寛永14)の島原の乱は松倉・寺沢両領主のキリシタン弾圧と苛政に対して,有馬・小西旧領主のキリシタン浪人が指導者となり立ち上がった総勢3万7,000人の農民一揆である。天草四郎時貞を盟主に仰ぎ,キリシタン信仰の擁護を旗印として宗教一揆の様相を呈し,終末思想が彼らの精神的団結に拍車をかけて,幕府軍総勢12万5,000有余名を相手に籠城3カ月にも及ぶ強靱性を発揮した。幕府は,その鎮定を契機に1639年(寛永16)ポルトガル船の来航を禁止し,鎖国を完成した。1640年には幕府,1664年(寛文4)には諸藩に宗門改役を設置,取り締まりを厳重にしたが,1657年(明暦3)大村藩を初め豊後・尾張などで多数の逮捕あり,1687年(貞享4)キリシタン類族改の制度を定めて信徒の根絶をはかった。1708年(宝永5)屋久島に来たヨハン=バッチスタ=シドッチは最後の潜入宣教師で,新井白石が審問したことは有名である。禁書令下にもかかわらず,中国の漢訳天主教書が識者のあいだに広まり,平田篤胤の復古神道にその影響が認められる。禁教の徹底により信徒はほとんど表面上姿を消した。潜伏しえた信徒は組講単位で残存したが,露見を恐れて閉鎖性・秘匿性を強くし,宣教師の指導を離れたことと相まってその信仰内容は大きく変容を遂げていった。彼らは〈七代たてばヨカ代になる〉との言い伝えを信じながら幕末に及んだ。
【幕末・明治前期】開国後,禁教下の日本へ居留外国人のために1859年(安政6)以降宣教師が続々と渡来した。カトリックでは,パリ外国宣教会のジラールが1859年江戸に,メルメは箱館に赴任,1862年(文久2)横浜に天主堂が建てられた。プチジャンは長崎に赴任,大浦に天主堂を建てたが,1865年(元治2)見物に来た浦上村の信徒らが祖先以来の信仰を告白した(キリシタンの復活)。1867年(慶応3)“浦上四番崩れ”がおこり,1870年(明治3)明治政府は浦上村の信徒3,109人を西日本の21藩へ流罪預けとした。しかし政府は外交上の見地から取り締まりを緩和し,1872年(明治5)帰村を許可,翌年切支丹禁制の高札を撤去した。長崎県の生月鳥・平戸島の一部・外海地方・五島列島などには,カトリックに復帰せず,今日なおも祖先の信仰を守りつづけている子孫がおり“かくれキリシタン”と呼ばれている。ハリストス正教会では,1861年(文久元)箱館にマアホフのあとニコライが赴任,1872年上京し,東京・東北に教線を伸ばした。プロテスタントでは,1859年米国基督教会のリギンズとウィリアムズ,米国オランダ改革教会のフルベッキらが長崎に,米国長老教会のヘボン,米国オランダ改革教会のブラウンとシモンズらが神奈川に赴任した。日本人には公然と伝道は許されず,教育・医療などに従事したが,周囲に集まる日本人のなかに受洗者も出た。最初の日本人信徒は,神奈川の鍼医・宣教師の日本語教師の矢野元隆で,1865年(慶応1)バラより受洗した。1872年日本最初のプロテスタント教会である日本基督公会が11人の信徒により横浜に創立された。仮牧師バラ・長老小川義綏(1869年受洗)。押川方義・熊野雄七・本多庸一・奥野昌綱(以上1872)・井深梶之助・植村正久(以上1873)らが受洗した。日本基督公会は無教派主義を唱え,横浜・東京・神戸・大阪・弘前・上田・長崎に設立されたが,のち神戸・大阪両教会が日本組合教会,弘前教会がメソヂスト教会に転じたほかは,1877年(明治10)日本長老教会と合同し,日本基督一致教会を創立した。諸教派も渡来し教会の設立が相次ぎ入信者も年ごとに増加した。横浜バンドには植村正久,札幌バンドには内村鑑三(1878年受洗)・新渡戸稲造(同年),熊本バンドには洋学校から新島嚢(1866)の同志社に転じた海老名弾正(1876)・小崎弘道(同年)らが出,他に弘前バンド・静岡バンドも形成され,明治10年代を境に伝道活動は宣教師から彼らの手に移った。1878年(明治11)教会数44・信徒数1,617人。明治10年代には中上層農民を中心に農村に教会が設立され,とくに後半には欧化主義の流行とリバイバルにより著しく教勢が発展した。政府はキリスト教に好意的となり,加藤弘之・福沢論吉・外山正一らも批判的態度からキリスト教採用論に一変した。片岡健吉(1885年受洗)・中島信行(同年)・島田三郎(1886)・北村透谷(1888)・秩父事件の落合寅市(晩年)など自由民権運動の敗退者も多く入信した。1887年(明治20)の教勢は,日本基督一致教会(1890年日本基督数会に改称),日本組合教会・日本聖公会・メソヂスト系諸教会(1907年日本メソヂスト数会)の4教派が中心で信徒数1万8,856人の85%を占め,前二者だけで1万2,158人・64%を占めた。聖書和訳の事業もすすみ1879年ブラウンが新約を完成,公認訳では1880年(明治13)新約,1888年(明治21)旧約が完成,思想文学に与えた影響は大きい。学校教育ではミッションスクールを中心に社会に貢献したが,とくに女子教育で先駆的役割を果たした。カトリックも教勢が拡大し,1876年(明治9)日本を1教区から南北の2教区に分割,北はプチジャン,南はオズーフが代牧に任ぜられた。1888年三教区となった。1887年教師72人・聖堂136・信徒数3万5,886人。
【明治後期・大正期・昭和戦前期】1889年(明治22)大日本帝国憲法が公布され,国家神道体制下での信教の自由が認められた。プロテスタントは,1890年(明治23)信徒数が2年前より1万1,000人増加して3万4,000人に達する教勢を示したが,1891年(明治24)内村鑑三不敬事件,1892年(明治25)“教育と宗教の衝突”事件,教会内の新神学論争の影響,1899年(明治32)文部省訓令第12号の宗教教育禁止令などにより停滞した。内村は事件後文筆活動に専念,1900年(明治33)「聖書之研究」を創刊。翌年小山内薫・有島武郎・志賀直哉らと自宅で聖書研究会を開き,無教会運動をすすめ,南原繁・矢内原忠雄らも参加した。資本主義の発達に伴い生じた社会問題に信徒も真剣に取り組んだ。社会事業では,孤児救済に石井十次の岡山孤児院・本郷定次郎の暁星園・小橋勝之助の博愛社・矢野毅の神戸孤児院,不良少年感化に留岡幸助の家庭学校,精神薄弱児教育に石井亮一の滝乃川学園,保育に野口幽香の二葉保育園・二宮わかの相沢託児所があり,禁酒運動に伊藤一隆・安藤太郎らが活躍した。救世軍は,1895年(明治38)より山室軍平らが免囚保護・廃娼運動などの社会奉仕活動で成果をあげ,カトリックも医療・孤児院などの社会事業で活躍した。社会主義の運動では日本組合教会系の信徒の活躍が著しい。安部磯雄は1891年アメリカに留学しキリスト教社会主義を学び,1898年(明治31)片山潜・木下尚江・幸徳秋水ら「六合雑誌」関係者を中心に社会主義研究会を結成,1900年(明治33)社会主義協会と改称,1901年(明治34)社会民主党を結成したが即日禁止処分を受けた。1905年安部・木下・石川三四郎らは「新紀元」を創刊,キリスト教社会主義を主張した。ハリストス正教会は,大津事件・三国干渉・日露戦争など緊張した国際関係のなかで順調に教勢を伸ばし,1905年(明治38)信徒は2万8,746人,翌年ニコライは大主教に叙任された。1912年(明治45,大正1)政府は神仏基の三教会同を開き,キリスト教を他教と対等に処遇した。超教派的活動にすすみ,社会教育では基督教青年会の夏期学校や日曜学校が盛んになった。1920年(大正9)第8回世界日曜学校大会が東京で開かれ,大正期に日曜学校は最も活況を呈した。諸教派信徒の統一団体として,1878年の基督信徒親睦会,1884年の福音同盟会,1911年(明治44)の日本基督教会同盟の系譜につながる日本基督教連盟が1923年設立された。大正デモクラシーとの関係では,吉野作造・鈴木文治・賀川豊彦らがデモクラシー運動・労働運動・消費組合運動・農民運動などで先駆的指導的役割を果たした。1912年鈴木の組織した友愛会は日本最初の労働組合である。1929年(昭和4)賀川の始めた神の国運動は,日本基督教連盟の“社会信条”に準拠したもので成果をあげた。1930年(昭和5)菅円吉らによるSCMが展開した。カトリックでは,1919年(大正8)東京にローマ教皇使節館が開設され,1942年(昭和17)政府はバチカンに公使を派遣した。1939年(昭和14)宗教団体法の公布,翌年施行。1941年(昭和16)カトリックの日本天主公教とプロテスタントの日本基督教団が認可された。ハリストス正教会とプロテスタントのうち日本聖公会の一部,東洋宣教会,セブンスデー=アドベンチストは合同に参加しなかった。2教団の教勢は,1943年(昭和18)教会数1,783・教師数4,293人・信徒数27万7,162人。戦時下キリスト教に対し厳しい統制と弾圧が加えられた。
【昭和戦後期】1945年(昭和20)終戦により,宗教団体法の廃止・宗教法人令の公布施行,1951年(昭和26)宗教法人法の公布施行をみた。その間,日本基督教団から独立する法人が多く現れた。戦後占領軍のキリスト教支援の政策を受けて宣教師や新教派も多く渡来し,アメリカなど外国からの援助もあって活況を呈し,1947年日本国憲法の施行により信教の自由が保障されて,同年入信者数は頂点に達した。同年の教育基本法と学校教育法の公布により宗教教育が可能になり,人間教育のキリスト教学校が世間から歓迎された。カトリックでは1949年ザビエル渡来400年記念式典,1952年ローマ教皇庁との国交回復とカトリック中央協議会設立,1960年(昭和35)土井辰雄東京大司教日本人最初の枢機卿に叙任,1962〜65年(昭和37〜40)第2バチカン公会議により日本も教会刷新に着手,1962年26聖人列聖100年祭,1965年日本信徒発見100年祭・高山右近逝去350年祭が開かれ,1981年(昭和56)教皇ヨハネ=パウロ2世が来日,東京・広島・長崎で諸行事を行った。ハリストス正教会では,1951年大主教ニコライ師渡来90年記念式典挙行,1970年日本正教会は聖自治独立教会となり,同年ニコライは聖人に列聖された。プロテスタントでは日本基督教団を中心に1948年(昭和23)日本基督教協議会(NCC)を結成,翌年宣教100年記念大集会,1966年(昭和41)日本基督教団創立25周年記念大会を開いた。日本バプテスト連盟では1983年(昭和58)ブラウン・ゴーブル宣教開始110年記念式典を開いた。1950年代より政治・社会・宗教などの問題に対し,キリスト教側からの発言も多くなり国際的な宗教協力・宗教平和運動も積極的に行われている。昭和57年末現在,主要教団信徒数はカトリック中央協議会37万8,465人,日本ハリストス正教会教団8,842人,日本基督教団13万7,146人,日本聖公会5万5,340人。
〔参考文献〕海老沢有道・大内三郎『日本キリスト教史』1970,日本基督教団出版局
片子沢千代松『日本のプロテスタント』1979,YMCA出版
村上重良『近代日本の宗教』1980,講談社
文化庁『明治以降宗教制度百年史』1983,復刻,原書房
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