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●キリスト教(中国) キリストきょう

アジア 中華人民共和国 AD 

【概観】中国のキリスト教史は次の4項に大きくわけて概観することができる。第1は唐代より元代にわたるネストリウス派すなわち景教の伝道であり,中国に伝えられた最初のキリスト教として注目すべきものである。第2は元代に始まるカトリックの伝道であり,とくに明末より始まったイエズス会(ジェスイット会・耶蘇会)の伝道は,西欧文化の導入を伴い,宣教師文化として,中国文化史の上にも多大な影響を及ぼした。明・清代に来華したイエズス会宣教師の中国文著作はわが国にも舶載され,鎖国体制下のわが国知識人に,西欧文化の一端を知らしめたことは注目すべきである。しかしイエズス会を中心とするカトリック伝道は,典礼問題によって清朝皇帝の不興を招き,19世紀前半までは布教を禁止された。第3は清末に始まったプロテスタントの伝道であり,19世紀初頭以来,入華した宣教師により聖書の中国語訳や教会学校の建設,医療伝道の発展が行われたことは注目すべきである。なおカトリック・プロテスタントともに,19世紀前半までは禁教下の秘密伝道であったが,アロー号戦争の結果としての天津条約北京条約によって,キリスト教の布教が公認され,教勢は発展するにいたった。この時期より現代の中華人民共和国にいたるまでの状況を第4項として考察する。19世紀後半以降におけるキリスト教の発展は,欧米資本主義国家の進出と結びついている一面もあったから,中国人の民族的自覚が高まるとともに,反キリスト教運動も激化するにいたった。しかしながら一方においては,キリスト教土着化の運動も漸進的にすすめられており,中国のキリスト教は新しい段階にさしかかっているといえる。以上の各項のうち,第1の景教は別に扱われているので,ここでは第2のカトリック伝道より考察する。

【カトリック伝道】元代の中国で本格的なカトリック伝道を行ったのはフランシスコ派のモンテ=コルビーノが最初である。これより以前,ローマ教皇使節プラノ=カルピニやフランス王使節ルブルクが蒙古を訪れているが,彼らはフランシスコ派の宣教師ではあっても,伝道の意図よりは政治的・外交的使命の方がより大きかったと思われる。コルビーノは1294年(至元31)大都(北京)に到着し,この地で伝道すること約30年にわたった。この間三つの教会を建設し,『詩篇』および『新約聖書』を蒙古語に翻訳し,さらに幼児教育にも努力した。1322年(至治2)にはオドリコが大都に到着し,伝道はいっそう発展したが,14世紀後半における元朝の滅亡はカトリック伝道の発展の気運を中絶した。カトリックの中国伝道が再開されたのは明末になってからである。イエズス会はカトリック教会の刷新をとなえると同時に,海外伝道を重視し,まずフランシスコ=ザビエルが中国伝道を志し,1552年(嘉靖31)広東港外の上川島に到着したがこの地で病没した。ザビエルの遺志をついで中国伝道の開拓を行ったのは,ミカエル=ルッジェーリ(羅明堅)とマテオ=リッチ(利瑪竇)である。伝道の拠点は初め肇慶・韶州・南昌に置かれていたが,1601年(万暦29)リッチはついに北京に入ることを許可され,教会堂を建設し,伝道発展の基礎を樹立した。リッチは中国知識人に対する布教を重視し,官吏や学者に対する伝道を熱心に推進したから,明の高官のなかにも入信する者が多かった。ことに李之藻徐光啓は著名である。彼はまた西洋学術を紹介することが,明の皇帝や知識人からいっそうの信頼を得る道であることを確信,イエズス会の布教方針として,これを積極的に推進した。彼が作成した『坤輿万国全図』は中国における最初の世界地図であり,数学の方面では『幾何原本』を刊行してユークリッド幾何学を紹介した。また中国において,暦がもっている重要な意義に注目し,ヨーロッパ暦学の優秀性を認識させることによって布教の便宜を獲得することをはかった。この計画はリッチ没後も,ウルシス(熊三抜)・ロンゴバルディ(龍華民)・アダム=シャール(湯若望)らによって継承され,イエズス会宣教師による中国暦法の改正が推進された。清朝も明朝と同様にヨーロッパの学術に重大な関心をもち,宣教師に命じて暦を作成させた。これが時憲暦であり1645年(順治2)より正式な暦となった。この後聖祖の初年(1660年代)に楊光先による迫害があったが,聖祖親政後,再び西洋学術が重視され,宣教師はキリスト教伝道に便宜を与えられることを期し,西欧学芸の紹介・導入をいっそう積極的に推進した。天文学の方面ではフェルビースト(南懐仁)の上奏により,イエズス会の宣教師が招かれて欽天監(天文台)の仕事にあたり,音楽の分野ではペレイラ(徐日昇)が招かれて西洋音楽を紹介した。聖祖は宣教師から幾何学・天文学・地理学などを学び,またヨーロッパの政治・学問・芸術に関する新知識を吸収した。清朝宮室のこのような要望に対応して,宣教師の活動はさらに積極化し,天文観測用の儀器の製作や,庭園用の噴水の建設にもあたり,軍事面では多数の大砲を鋳造して清朝の軍事力を強化するなど,その貢献は多大であった。またとくに注目すべきものに『皇輿全覧図』の作成がある。これはブーベ(白晉)やジェルビオン(張誠)らが中心となって作成した中国最初の本格的な実測図として重要である。宣教師はさらに外交方面においても清朝の顧問となった。なかでも1689年(康煕28)ネルチンスク条約の締結において,ジェルビオンとペレイラ(徐日昇)が通訳および外交上の顧問として活躍したことは有名である。またカスティリオーネ(郎世寧)が西洋画法を伝えただけではなく,高宗の命により円明園に宮殿を設計するなど,その活躍は建築の分野にも及んでいる。なお聖祖が編さんを命じた『律暦淵源』は,音楽・暦学・数学に関する学問の集大成であるが,このうち音楽に関する部分は1714年(康煕53)『律呂正義』の書名で刊行され,本格的な西洋音楽の解説書となっている。イエズス会を中心とするカトリック伝道は,以上のように西洋近代文化の導入を伴っており,いわゆる宣教師文化は,中国文化の発展に大きな影響を与えた。カトリックの伝道は18世紀初頭より始まった典礼問題を契機として急速に衰勢にむかい,世宗は1723年(雍正1)ついにキリスト教禁止の詔を発した。この結果,北京の朝廷において学問あるいは芸術上の特殊な仕事にたずさわっている者を例外として,宣教師の中国居住は不許可となった。当時,中国にあった教会は約300といわれるが,これらの建物は破壊されるか,あるいは公用建築に転用され,約30万人に達していた信徒は棄教を迫られて絶望的な状態となったのである。ただし禁教時代においても,宣教師による非合法の布教はかなり行われたようであり,清朝の禁令はしだいに巌しくなっていった。

【プロテスタント伝道】モリソンによるプロテスタント伝道の開拓は1807年(嘉慶12)であるが,当時の清朝はキリスト教を禁止しており,伝道は最初から困難な状況にあった。このためモリソンは,広州で東インド会社の通訳に就任し,英華辞書の編さんおよび聖書の中国語訳完成を当面の目標とした。ついで1813年(嘉慶18)ウイリアム=ミルンがマカオに到着し,モリソンと協力して伝道の拠点をマラッカにおいた。これ以後広州のモリソンとマラッカのミルンは協力して聖書の中国語訳を推進し,1823年(道光3)『神天聖書』の刊行をみるにいたった。またミルンがマラッカに創設した英華書院AnGlo-Chinese ColleGeは,中国人を対象とした教会学校の先駆として重要である。ついでメドハーストギュツラフブリッジマン・ウイリアムスらが中国伝道の基礎事業を推進し,またピーター=パーカー・ホブソンらによって医療伝道が発展した。ホブソンが中国人医学徒のために執筆した『全体新論』などの医学書はとくに有名である。なお1832年(道光12)中国人宣教師梁発が執筆した『観世良言』が,太平天国の創設者洪秀全に影響を与え,太平天国の綱領にキリスト教的影響を与えることになったことは重要である。

【キリスト教伝道の発展と反キリスト教運動】アヘン戦争・アロー号戦争による諸情勢の変化は中国のキリスト教伝道を飛躍的に発展させ,カトリック・プロテスタントともに,信徒数は著しい増勢を示した。しかし,この時期における中国人の入信の背景にはさまざまな要素があることに注目しなければならない。すなわち一部の中国人は純粋な宗教的動機というよりは,近代欧米文化に対する憧憬などからキリスト教に入信し,また清朝が欧米列強と結んだ条約上の特権が,ときには中国人信徒に及ぶ場合があることも一つの大きな魅力となっていた。このことは信徒数の増加が,真の意味の中国キリスト教の発展を意味するものでないことを示している。また1860年(咸豊10)以後,教案と呼ばれる反キリスト教運動が各地に頻発したことも注目すべきである。民衆がキリスト教を排撃しようとした原因には,教会が帝国主義勢力を背景にさまざまな特権を行使しようとしたこと,また中国人キリスト教徒が,農村社会の旧来の風習を破ったり,公共事業への参加を拒否したことなどへの反感があった。また宣教師も中国の現実を十分に認識せず,一方的な優越感による布教を行ったため,キリスト教の本質は中国人には理解されなかった。とくに19世紀末になって,列強の帝国主義的進出が激化し,民衆生活への直接的圧迫が強化されてくると,民衆の排外意識はさらに激しくなった。この場合,中国民衆にとって最も近くにある帝国主義勢力の代表ともいうべきものはキリスト教会であり,各地で大小の迫害事件が相ついでおこることとなった。これらの反帝国主義的運動のなかで,最も激しかったのが義和団事件である。これによって殺害されたキリスト教徒は,カトリックでは,宣教師が約50人,信徒が3万人以上であり,プロテスタントでは,宣教師が約200人(家族を含む),信徒が約2,000人に達していた。遭難者がこれほど多数であったことは,中国民衆のキリスト教に対する敵意がどのように激しかったかを物語るものであり,それはまた19世紀後半における中国キリスト教伝道の問題点を示すものであった。

【20世紀のキリスト教】義和団事件は,19世紀後半以降のキリスト教伝道に対する覚醒をうながし,20世紀に入ってからはこの試練の上に,新しい伝道方針が採用された。また義和団事件の賠償金の一部が伝道事業の再建に有効に使用されたこともあって,キリスト教伝道は新しい発展期に入った。とはいっても反キリスト教運動が,また別の形態において盛んになったことは注目すべきである。1915年(民国4)以後中国では新文化運動が展開し,サイエンスとデモクラシーこそ新時代の信仰であるとする意識が急に高まってきた。中国の知識人は,中国人の意識向上に最も有効であるのは,合理主義的思考にもとづく科学主義であると断じ,キリスト教に対する批判を強めるにいたった。さらにまた五四運動以後,共産主義思想がひろまるにつれて,〈宗教はアヘンである〉とする反宗教思想が強まり,この影響もあって反キリスト教運動はしだいに大きな形をとることとなった。1922年(民国11)反キリスト教同盟が結成され,〈キリスト教は帝国主義の走狗である〉として攻撃し,1924年(民国13)には運動の目標を教会学校におき,いわゆる教権回収運動を展開した。この運動は教育権を外国人のミッションから取り戻すことを意図したものである。教権回収運動と前後して,本色教会運動(IndiGenous Church)が盛んとなったことも注目すべきである。従来の教会は外国人によって設立され,外国人の宣教師によって指導されたが,この運動は〈中国人による,中国人のための,中国的な教会〉をつくろうとするものであり,キリスト教の中国土着化の1指標とみることができる。キリスト教は外来の宗教であるので,それが中国の宗教となるためには,中国の文化・社会と遊離せず,中国人に密着した宗教とならねばならない。また中国のキリスト教会が真の自立をするためには,経済的自立だけではもとより不十分であり,中国人キリスト教徒が,中国人としての立場において,自主的思考をすすめていかなければならないことも当然である。本色教会運動は,1920年代のプロテスタント教会においてとくに盛んとなり,この運動を推進する委員会が組織され,各教会に対し,[1]自治・自養・自伝の3目標を実現するように努力すること,[2]中国伝統の祖先崇拝をキリスト教的な形で考えていくこと,[3]教会行事の制定は,西洋式・中国式の二つの視点から考えてゆくことなどの提案を行った。

【新中国のキリスト教】1949年(民国38)10月の中華人民共和国の成立は,中国のキリスト教界に革新の動きをもたらした。1950年(民国39)4月キリスト教の5団体の代表は北京に集まり,政府関係者とキリスト教徒の諸問題について協議した。ついで5月には周恩来との会談が実現し,この結果,「中国基督教会宣言」が発表された。この宣言は,中国のキリスト教徒が新中国の建設にあたって,いかに行動すべきかということがその骨子となっている。その第1は,中国の教会は帝国主義との関係を断ち切ること,第2は,中国の教会は完全な自立を達成するように努力すべきことであり,10月上海で開かれた中華全国キリスト教協進会(中国プロテスタント諸派の連合組織)の大会でこの宣言の支持を決定した。これが三自愛国運動の発端となったものであり,自治(中国人による教会運営)・自養(外国教会の財政援助拒否)・自伝(中国人を主体とする伝道)が積極的に推進された。三自愛国運動は,1920年代の本色教会運動の発展的形態であり,したがってプロテスタントにおいては,この運動への参加が比較的円滑に進行した。しかしカトリックでは,ローマ教会に対する従属性が非常に強かったこともあって実施はやや遅れたが,自主的革新運動を展開した。1954年(民国43)中華基督教協進会が開催されたが,このころには,プロテスタント・カトリックともにほとんどの教会が三自愛国運動に加入しており,代表的キリスト教徒である呉耀宗は会議報告のなかで,〈帝国主義者はすべて中国から脱出し,新しい精神が中国キリスト教会のなかで成長しつつある〉と述べている。中国のキリスト教は文化大革命の時期に激しい試練を受けたが,その終了後,しだいに教勢を回復している。中国の新しい教会の動向はまだ部分的にしか明らかでないが,やがて日中両教会の交流も期待することができよう。

〔参考文献〕溝口靖夫『東洋文化史上の基督教』1941,理想社

佐伯好郎『支那基督教の研究』(1)〜(3),1943〜44,春秋社

佐伯好郎『清朝基督教の研究』1949,春秋社

気賀重躬『東亜基督教史』1943,新光閣

楊森富編『中国基督教史』1968,台湾商務印書館