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●キリスト教(西洋) キリストきょう

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 イエスを救主キリストと信じ,その人格と教説を中心として教会を形成し,発展した世界宗教。

【原始キリスト教】イエスはユダヤ教を母胎としながら,その律法主義や排他的独善主義を批判し,神の絶対愛による魂の救済を説いた。彼はローマ皇帝に対する反逆者として十字架刑に処せられたが(紀元30ごろ),3日目に復活し,彼を救主すなわちキリストと信じる人々が聖霊降臨を契機として,イェルサレムに原始キリスト教団が結成された。ペテロ・ヤコブに導かれたこの教団は,やがてパウロが〈異邦人の使徒〉としてヘレニズム・ローマ世界に伝道活動をすることによって発展した。パウロはイエスの死を人間の罪の贖いとする救済観を明示し,ユダヤ教を超克した世界宗教としてのキリスト教を確立した。イェルサレムのユダヤ人キリスト教は第1ユダヤ戦争(66〜74)を契機として衰え,異邦人キリスト教が主流となったが,グノーシス主義の異端との対決を通して古ローマ信条が制定され,『新約聖書』が結集され,単独司教制が成立して原始キリスト教は初期カトリック教会に移行した。

【初期カトリック教会】ローマ政府は一般にその支配下の諸民族の宗教に対して寛容であったが,キリスト教はユダヤ教にもましてその非形体的性格から実体が把握し難く,異教社会よりの疎隔によって魔術・人肉食・近親姦などの誤解によって異教民衆の憎悪を招き,迫害と殉教が始まった。ネロの迫害(64)以来,公権力による弾圧も加わり,1世紀末ごろには「キリスト者」という名称自体が逮捕処刑の対象となり五賢帝時代を通じても変わらなかったが,むしろスミルナ司教ポリュカルポスの殉教の場合のように,民衆主導の場合が多くローマの皇帝礼拝の強要もそれほど著しくはなかった。これに対しキリスト教側からは2世紀中ごろにユスティノスなどの護教家が出て,ギリシア思想を摂取しながらキリスト教の合理性を弁明し,さらに同世紀末にはエイレナイオス・テルトゥリアヌスがさらにキリスト教の神学を推進し,またマルキオン・モンタヌスの異端と対決し,アレクサンドリアのクレメンスとオリゲネスによって3世紀初め,キリスト教神学の体系が樹立された。3世紀中ごろ,デキウス帝にはじまる帝国のキリスト教に対する全般的・組織的迫害が断行され,カルタゴ司教キプリアヌスなど多くの殉教者を出したが,〈殉教者の血は種子〉となって新しい信者を生み,4世紀初めのディオクレティアヌス帝の最終的大迫害も失敗に終わった。

【ローマ帝国教会】313年,コンスタンティヌス1世(大帝)はミラノ勅令を発してキリスト教を公認し,ここにローマ帝国とキリスト教との和解が成立,さらに325年帝はニケーア宗教会議を召集し,アタナシウス派を正統とし,アリウス派を異端と宣言,330年にはキリスト教的な新首都コンスタンティノポリスを建設した。帝国を追われたアリウス派はゲルマン民族内にひろまり,また431年,エフェソス宗教会議で帝国を追われたネストリウス派も東方に布教,唐代中国に景教として知られた。キリスト単性論も451年のカルケドン宗教会議で退けられ,三位一体説が正統教理とされた。三位一体説カッパドキアの3教父バシレイオス・ニュッサのグレゴリオス・ナジアンゾスのグレゴリオスとアウグスティヌスによって神学的に体系づけられた。しかし,キリスト単性論は今日もなおコプト・エティオピア,シリアのヤコブ派マロン派,アルメニアの諸教会が信奉している。他方アタナシウス派はカトリックとして4世紀末,テオドシウス1世によってローマ帝国の国教となり,レオ1世グレゴリウス1世などの人物を出したローマ司教は教皇としての尊称と権威をもつようになった。この時期の指導的な教父としてはアンティオキアのクリュソストモス・ミラノ司教アンブロシウス,聖書をラテン語に訳したヒエロムニスと上記のアウグスティヌスが知られた。とくにアウグスティヌスは『神国論』をはじめぼう大な著作によって異教(マニ教など)・異端(ペラギウス派・ドナトゥス派など)の論破と正統教理の確立に大きな貢献をした。4世紀にはまたエジプトのアントニウスやパコミウス,上記のカッパドキアのバシレイオス,フランクのトゥールのマルティヌスなどによって修道院が創始された。キリスト教美術では迫害時代のカタコンベ(地下墓所)とその絵画に代わってバシリカ式教会堂が建立された。

【中世初期のキリスト教と東西教会の分離】西ローマ帝国の滅亡(476)後,カトリック教会はフランク王クロヴィスを改宗させ(496),ピピン(小)より教皇領の寄進を受け(754/755),カール大帝に帝冠を授けて(800),フランクとの結びつきを強化した。またカンタベリのアウグスティヌス・パトリック・ボニファティウスをそれぞれイギリス・アイルランド・ドイツに派遣し,キリスト教化に努めた。上記の教皇グレゴリウス1世は教皇制度を確立し,これらの異教徒布教を指導するとともに,グレゴリウス聖歌を制定した。しかしキリスト教は7世紀にアラビアからおこったイスラーム帝国によって中東・北アフリカとイベリア半島の大部分を奪われ,この地域のキリスト教は大きな打撃をうけた。他方,東ローマのユスティニアヌス帝はローマ帝国の政治的・宗教的再統一を企図し,皇帝教皇主義を実行,アテネのアカデメイア学園を閉鎖(529),聖ソフィア大聖堂を再建した(532〜537)。しかし東西両教会は上記のカール大帝の戴冠,聖霊の発出が父よりだけ(東教会)でなく,〈子よりも(フィリオクェ)〉(西教会)とする教理の差異,聖画像(イコン)をめぐる態度の対立によって東西教会の反目は激化,ついにギリシア正教会の総主教ケルラリオスと教皇レオ9世との相互破門(1054)によって,まったく分離してしまった。

【ギリシア正教とロシア正教ギリシア正教会は9世紀に宣教師キュリロスメトディオスをモラヴィアに派遣し,同世紀にブルガリアとセルビアを,10世紀にロシアを正教圏に加えた。ロシアの改宗はキエフ大公ウラジミル1世によって行われた(988)。ロシア正教キエフ公国にコンスタンティノポリス総主教管区の府主教座が設置された10世紀末から活性化し,タタールの侵入後,府主教座はウラジミルをへて14世紀にモスクワに移され,モスクワ公国を基盤とするロシアが正教の指導的勢力となった。東ローマ帝国滅亡(1453)後もギリシア正教はオスマントルコ支配下にミレット制として存続を許されたが,モスクワ府主教座はコンスタンティノポリスより独立して16世紀には総主教座の地位を獲得した。ただしロシアの総主教制度は1721年に廃止されてシノド(宗務庁)制度に改変され,国家に対する従属度を強めた。19世紀中に達成されたシベリア征服とロシア化も正教化と平行して進んだ。19世紀以来,ギリシアをはじめ東欧諸国がしだいにトルコより独立し,各国の教会も自主制を発揮しはじめた。これに対しツァーリズムの勢威下に絶大な特権的地位を誇ったロシア正教会は,ロシア革命後はソヴィエト政権による反宗教運動によって大打撃をうけた。しかし第二次世界大戦中に宗教政策の転換をみたソヴィエトでは正教会も積極的に政府に協力し,戦後もなお制約はありながらも新時代に即した宗教活動を展開し,東西両体制の緊張緩和の一環としてカトリック教会との和解が推進されている。

【西欧中世におけるローマ教皇権の盛衰】西欧中世においてローマ教皇権は発展し,神聖ローマの帝権と協力してキリスト教世界の秩序を担うものとみなされた。しかしやがて両者のあいだに激しい叙任権闘争がおこり,教皇グレゴリウス7世の皇帝ハインリッヒ4世の破門とカノッサの屈辱(1077)をひきおこし,1122年のヴォルムスの協約によってほぼ教権の確立をみ,13世紀初めのインノケンティウス3世のときには教権は絶頂に達し,英仏の王はその威令に服した。カトリック教会を内部から支えたのは修道院で,西欧においては6世紀にベネディクトゥスによってモンテ=カシノに創建され,清貧・貞潔・服従の3徳目を誓願,自活生活を営むとともに伝道・芸文・経済活動に貢献,10世紀のクリュニー修道院運動は聖俗両界を覚醒させ,11世紀末のシトー,ついでプレモントレの修道会の活動がこれにつづいた。13世紀初めにフランチェスコ・ドミニコの托鉢修道会がおこり,民衆に愛の教えと行いを与え,やがて学問活動にも進出し,アルベルトゥス=マグヌス・トマス=アクィナス・ボナベントゥラなどスコラ哲学に多くの人材を提供した。11世紀末より約2世紀近く反復された十字軍は教皇の勧請にもとづいたが,聖地回復の目的は果たされず,教皇権は衰退にむかい,14世紀初めのアナーニ事件(1303),教皇のアビニョン捕囚(1309〜77)によって決定的となり,教会の大分裂によって混迷は深まった。すでに教権全盛期にもワルド派カタリ派などの異端があり,ウィクリフ・フスによって改革的意見が明かにされ,大分裂を終結させ,フスを焚殺にしたコンスタンツの宗教会議(1414〜18)も教権回復のきざしとはならなかった。西欧中世のキリスト教美術には10〜12世紀にロマネスク,12世紀後半から15世紀末までゴシックの教会建築が流行した。

【プロテスタント宗教改革とカトリック宗教改革】ついに1517年,ルターは贖宥を批判する95カ条の論題を公示することによって宗教改革の幕は切って落とされ,ルターは皇帝カール5世によってヴォルムスの国会に召喚され,国法の保護外におかれた(1521)。彼はワルトブルク城にかくまわれているあいだ,聖書をドイツ語に訳し,信仰による義認を強調して福音主義を明示した。彼は農民戦争(1524〜25)においては農民の支持を失い,自由意志論争でエラスムスら人文主義者と別離した。しかし元修道女カタリナ=フォン=ボラと結婚,カトリック的独身制を打破,プロテスタント的結婚観を確立した。ルター派は1555年,アウグスブルクの宗教和議でカトリック教会と同等の権利をかち得た。ルター派は16世紀中ごろにドイツを中心にスカンディナビア諸国にひろまり,18世紀以降アメリカでも栄えた。ルターについでスイスにまずツヴィングリが出て,チューリッヒで宗教改革を行ったが,ルターとは聖餐論で意見が合わず,やがてカトリック軍と戦って戦死した(1531)。スイスには他に急進的な再洗礼派の活動もあったが,最も大きな発展をとげたのは,フランス人カルヴァンがジュネーヴで行った宗教改革で,神の主権と人間の救いへの選びの予定説を唱え,代議制の長老教会を創出,またプロテスタンティズム最初の体系的神学書『キリスト教綱要』(初版1536,逐次増補改訂)や全聖書の注解書を著した。ジュネーヴはプロテスタンティズムのセンターとなり,イギリスのピューリタン・フランスのユグノー・スコットランドの長老派・オランダの改革派はみなその流れをくんでいる。イギリスの宗教改革は,ヘンリー8世と妃キャサリンの離婚問題に端を発し,「首長会」(1534)によってカトリック教会より分離,イギリス国教会を設立した。フランスではカトリック・プロテスタントの対立が激しく,サン=バルテルミの虐殺(1572)がおこったが,アンリ4世の発したナントの勅令(1598)によってプロテスタントも制限付ながら信教の自由を得た。カトリック教会もトリエントの宗教会議(1545〜63)によって宗教改革の体制を整え,イグナティウス=ロヨラ・ザビエルによって強力な組織をもった「イエズス会」が教皇庁の認可を得て設立され,ヨーロッパにおける失地回復と海外伝道に努力し,ザビエルは日本,マテオ=リッチは中国に渡来した。カトリックとプロテスタントの最後最大の対決は「三十年戦争」(1618〜48)でドイツを戦場とし,デンマーク・スウェーデン・フランスが介入,1648年ウェストファリアで和を結び,戦前非公認だったカルヴァン派がカトリック・ルター派と同様公認され,オランダ・スイスの独立が承認された。

【近現代欧米のキリスト教】宗教改革と宗教戦争の後,これに対する反動が生じ,近代科学と近代哲学の影響を受けて信仰を理性の範囲内に限定しようとする理神論がおこった。同時に三十年戦争の主戦場として荒廃し,ルター派正統主義が形骸化したドイツに1670年代からシュペーナー・フランケを中心とする敬虔主義が生まれ,教会に霊的生命を吹きこんだ。ドイツ宗教音楽の最高峰パッハも敬虔主義の情調を多分に受けており,この派のツィンツェンドルフはモラヴィア教会を再建した。イギリスのメソディスト運動の創始者ジョン=ウエスレーはモラヴィア派の影響を多分に受け,盟友ホイットフィールドと大々的な野外伝道を行い,炭坑夫などを多数回心させた。ジョンの弟チャールズはイギリス最高の賛美歌作家として知られる。メソディスト運動は後に国教会より独立してメソディスト教会となった(1796)。これより先にイギリスでは,ほかに貧しいいかけ屋の子として生まれ,バプテスト教会の信者として『天路歴程』などの名著をのこしたバンヤン(1628〜88),フレンド(クェーカー)派の創始者フォックス(1624〜91)が知られ,また国教会内にオックスフォード運動がおこり,礼拝・儀式・典礼を重んじたが,後にこの運動は分裂し,指導者の一人ニューマンはカトリックに改宗した(1845)。またブース(1829〜1912)は軍隊組織で大衆伝道に当る救世軍を創建,世界にひろまった。

 カトリック教会はフランス革命によって大打撃を受けたが,ナポレオンは教会と和解した。ピウス9世は教会の権威を高めるため,ヴァティカン公会議を開き(1869〜70),教皇無謬説を制定(1870),さらにピウス12世は聖母被昇天の教理を公認した(1950)。近年,第2ヴァティカン公会議(1962〜65)において,ヨハネス23世・パウロ6世によって教会の現代への対応と異宗派・異宗教との理解と友好が推進されている。

 アメリカでは最初にイギリスから迫害を逃れてオランダに来ていたピューリタンの同志102人がメイフラワー号に乗って北アメリカのプリマスに上陸(1620),ピルグリム=ファーザーズ(巡礼始祖)として知られる。それ以来バステストはロードアイランド,クェーカーはペンシルヴァニア,国教会はヴァージニア,カトリックはメリーランド,長老派はニュージャージー,会衆派コネティカットとマサチューセッツ,ルーテル派はデラウェアというふうに北アメリカ東岸各地に植民地をつくり,やがて独立戦争の年に教会と国家の分離を規定するヴァージニア民権条令も定められた。またアメリカの自然的・精神的風土のなかで独自の宗派も生まれた。ユニテリアンズ・ディサイプル派・モルモン派・クリスチャン=サイエンスなどがそれであり,海外伝道にも進出した。

 アメリカの教会には信仰復興運動が循環的に生じていることが一特色となっている。ジョナサン=エドワーズとイギリスから来米したホイットフィールドが協力した大覚醒運動(1740〜42)をはじめ,19世紀初めエドワーズの孫ドワイト,その後フィニー・ムーディ・サンデーとつづき,現代のビリー=グラハムにいたっている。

 現代におけるキリスト教の危機は一方においてひろまっていく世俗化と宗教的無関心であり,他方においてはファシズム・ナチズムおよびマルクス主義との世界観的対決である。とくにナチズムに対して第二次世界大戦前と戦中においてドイツの良心的な告白教会の牧師ニーメラーなどの抵抗,ボンフェッファーの殉教(1945)などが知られており,ソルジェニツィンのソヴィエトからの追放も根本的には彼がロシア正教の信条にもとづく反体制思想を堅持しているからであろう。なお現在,中南米を中心とする“解放の神学”の動向も注目される。

〔参考文献〕石原謙『キリスト教の源流』『キリスト教の展開』(石原謙著作集8・9)1979,岩波書店

半田元夫・今野国雄『キリスト教史I・II』(世界宗教史叢書1・2)1977,山川出版社

森安達也『キリスト教史III』(世界宗教史叢書3)1978,山川出版社

上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史』11巻,1980〜82,講談社

カール=ホイシ,荒井献・加質美久夫訳『教会史概説』1966,新教出版社

園部不二夫『図説キリスト教史』1973,創元社

バンバー=ガスコイン,徳岡孝夫監訳『ザ・クリスチャンズ――キリスト教が歩んだ2000年』1983,日本放送出版協会