●キリシタン文化 キリシタンぶんか
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キリスト教の伝来は,仏教伝来以来最大の文化的衝撃であったといえる。しかも大陸文化は徐々に流入し,また日本側が積極的にそれを追求したのに対し,西欧文化は何ら予備知識もないところへ突如として伝来した。そして社会的にその本体をみきわめ,自発的に摂取に進むかと思われたときに,集権的封建権力により危険思想として国家的に排除され,“伴天連の魔法”という恐怖心を民衆に植え付けたのである。しかしキリシタン宣教師俗称伴天連らは,日本人の文化的才能を高く評価し,文化的布教策を採ったので,ルネサンス期の西欧文化が戦国という激動期の日本にもたらされ,日本人の世界観・人間観,そして生活にも多大の衝撃を与えた。17世紀中期の長崎の儒医向井元升が『知耻篇』に,ある翁の昔語りとして〈きりしたんさかむなりし時の世のありさま……人には南蛮名を付てよび,歳月時節の風儀も冠婚祭葬の礼儀も,賓客朋友のまじはりも道徳節儀の心操も,飲食衣服の調ひも南蛮様〉であったと述べられている。16世紀末期は確かにそうした状態にあり,そこに思想的・社会的自由が芽生える一方,合理的・実証的・批判的精神が伴うことは封建権力の是認することのできないものであった。1630年(寛永7)の禁書令が,純天主教書だけでなく科学書までも輸入を禁じていることは,その現れでもある。しかし,真理探求の学徒のあいだにそれらは密行し,鎖国下にも偽装しつつのちの蘭学への道を準備した。紅毛学・蘭学に対して,これらを南蛮学・南蛮文化などと称されるが,それをもたらしたものとして実質的にキリシタン文化というべきであろう。【思想】土俗的宗教心理・シンクレティズム的日本思想界に唯一絶対の創造主宰神信仰は容易に受容され得ない。しかし,当時の吉田神道における一神教的神学発展,具体的には“天道”の主宰神的理解が戦国の有為転変の生活のなかに強められ,また阿弥陀の救済を媒介としてキリストの救贖,神の愛の把握にいたることも可能であった。こうした接点は,儒説・仏説を盗んでキリシタンは立教したとする排耶論を生み出す一方で,『本佐録』や『仮名性理』などに唯一主宰神観が摂取されて,のちに新井白石をして儒学と天主教との類似を〈年来の疑問〉として悩ませたほどである(『本佐録考』)。下って19世紀初期,平田篤胤が禁書であったリッチ・アレニら在華耶蘇会士の著に啓発され,復古神道の種本『本教外篇』を編したことは,日本思想界の深層における天主教教理の摂取として注目される。また弱肉強食の戦国乱裡に人権を無視されていた庶民層,とくに女性・無告の民に,自他の人格の尊厳の思想がもたらされ,奴婢・遊女・奴隷の解放など,社会的実践を通して示されたこと,男女の協同体としての家庭の建設が,キリスト教倫理とともに教義的に教えられ,守られたことなど,各種の矯風・慈善事業とともにまさに解放の福音であったといえる。一般にキリシタン大名・武士層の入信が知られるが,現代にもおよぶ“かくれ切支丹”の存在にみられるように,実際は広く庶民層に迎えられたのであった。
【医学】当初,医療はキリシタンのいう“慈悲の所作”として始められる。若干の新薬以外は漢方で事足りたが,諸腫瘍・癩・銃創に南蛮外科は成績をあげ,とくにアルメイダが豊後府内に私財を献じて1557年(弘治3)設立した最初の洋式病院の治療は関東にまで評判を呼んだという。それは内科・外科・小児科・癩科に分かれていたが,アルメイダはもっぱら外科に当たり,臨床的に日本人青年医師を養成した。1584年(天正12)当代の名医李朱医学の曲直瀬道三が受洗しているが,洋法を摂取した形跡をみない。が,1593年(文禄2)フランシスコ会が渡来し,伝統的救癩事業が積極的に展開され,イエズス会の病院と相まって慶長禁令後も元和にいたるまで存続を認められるほどであった。最初の南蛮流の影響を示す医書として山本玄仙の『万外集要』(1619)があるが,栗崎・中条・坂本流や転び伴天連沢野忠庵流などとして普及し,忠庵門下に西玄甫・半田順庵・杉本忠恵などがあり,日本外科鷹取流と医界を二分する勢力であった(黒川道祐『本朝医考』1663)。さらに忠庵の外科書は『阿羅陀外科指南』(1696)と,紅毛流に偽装して出版されたり,鳥飼流秘伝書に〈関東ノ厳令ヲ重シ当流仮ニ紅毛流ヲ称ス〉とあるように偽装しつつ蘭学時代へと接続している。
【天文・暦算】医学とともに早く伝えられた西欧科学は天文暦学であった。それは主宰神の存在証明の有力な解説として宇宙の構造,整然たる動きを説くという方法が採られたからであり,ザビエルも天文学に詳しい宣教師の派日を求めているほどである。その合理性に感じ,平安以来の天文暦家賀茂在昌が早くも1560(永禄3)までに入信している。キリシタン学校教育の発達につれ組織的教授が進められ,ゴメスが修学修士のために著した『天球論』は,沢野忠庵述・向井元升訳の『天文備用』をへて,小林謙貞の『二儀略説』となるなど,鎖国下に継承される。これはまた暦算・町見(測量)術・地図学など関連科学に大きな影響を与えている。17世紀中期以来の授時暦研究の進展,渋川春海の貞享暦,在華耶蘇会士編『西洋新法暦書』,地動説を示した『暦象考成後篇』などによる太陽太陰暦の寛政暦の成立。朱印船だけでなく鎖国下に長崎奉行による小笠原島探検,水戸藩の北海探検などの造船・航河技術。アンジェリスの蝦夷地探検やモレイラの実測による日本地図作製。スピノラによるマカオと呼応した月蝕観測による経度測定。そして在華耶蘇会士リッチの『坤輿万国全図』『両儀玄覧図』による世界地図の導入は,幕末にいたる日本における世界地理学の主流をなし,伊能忠敬の学もほとんどが在華耶蘇会士の学術書に依存しており,和算ですら関流の発展段階の背景に南蛮暦算の理解があることなども証明されている。
【語学・文学】信仰定着のためパードレらは来日以来,日本語の学的研究を進め,辞典・文典を編し,その成果は1590年以降の各種キリシタン版,なかでも『羅葡日辞典』(1595)・『日葡辞典』(1603〜04)・『日本大文典』(1604〜08)などとして結実した。それらはカミ・シモの方言,婦人語,上品・下品な語など,さらに文法学的にそれらを体系化したもので,現代学界において古語・中世語研究に必見の書とされている。こうした精緻な研究の上に万民に親しまれるキリシタン文学が成立する。その多くは宗教文学であり翻訳にすぎないともいえるが,日本文学史上,不毛な戦国から桃山時代にかけての最大の文学的活動であった。バレト写本にみられる聖書の和訳は,すべてのキリシタン文学の基礎として注目すべく,聖書についで広く読まれた『コンテンツスムンヂ』(キリストの模倣)は翻訳的生硬さはなく,流簾清雅,明治以後数十種の翻訳にも勝るとさえいえる。そのほか『サントスの御作業』『ぎやどぺかどる』など,優れたキリシタン文学がある。また『平家物語』口語訳,『太平記』『倭漢朗詠集』『金句集』など伝統文学・語学書を出版していることも見逃せない。これらは日本最初の活字印刷書で,1590年(天正18)加津佐版に始まり,天草・長崎で,記録的には100点を下らぬ書が1614年(慶長19)の大追放までのあいだに出版されている。慶長勅版や伏見版に比して,当時における最大の出版活動・文化運動であったといえる。
【美術】建築は禁制により破却されたため推定にとどまるが,伝狩野元秀筆「洛中洛外名所屏風絵」の1枚『なんはんとうの図』(神戸市立美術館蔵)のように和風3階建の京都南蛮寺や,長崎イエズス会本部の洋風建築などが記録的に知られる。それらを飾った壁画は知られないが,聖画は信心具として重要であり,需要増大に伴い志岐の画学舎で製作され,ニコラオが来日,油絵・銅版技術を教えた。それらの成果は大阪府高槻市で発見された『ザビエル聖人像』や『聖母マリア十五玄義図』などにもみられる。とくに銅版画の導入,しかもそれが明末中国画壇にも影響を与えたことは万暦年間(1573〜1619)刊行の『程氏墨苑』に模写されていることによって知られる。また狩野・土佐派のキリシタン画人の名も伝えられているが,島原の乱に参加した山田右衛門作の作ともいわれる一揆の軍旗『聖体讃仰図』(重文)に当代洋画の凝縮をみることができる。100点をこえる南蛮屏風は,南蛮船入港交易図・地図・南蛮風俗図などに大別されるが,従来の花鳥風月的邦画に対し,斬新な構図をもち,泰西武人図・洋人奏楽図など多彩である。これらは模写に過ぎないが,なかには日本婦人を加えた図もあり,「信方」という狩野派画人の署名もみられる。それらは不充分ながら遠近法を摂取し,世界的視野に立つ近世的意識は日本画壇の革命的現象といえよう。そのほか輸入絵画の銅版画も少なからず伝存しているが,最も注目すべきは南蛮意匠による螺鈿蒔絵類である。机・椅子・盆・煙草入・馬鞍・文箱・鏡箱などにクルス紋様や南蛮人図などが描かれている。なかでも鎌倉東慶寺蔵『聖体盒子』(重文)はじめ,鍔鞘などそのほかにもクルス紋図案がみられ,武士的観念と信仰との調和を示している。傍系に踏絵がある。長崎の祐佐の作とされるが,苦難のキリスト像・ピエタ像・栄光の聖母像などルネサンス的作品で,信徒の愛用した没収メダルを貼め込んだ板踏絵もある。
【音楽・芸術】洋楽はザビエルが周防領主大内義隆にクラヴォを献上したのに始まる。キリシタンの普及に伴い,1560年ごろから各地の教会で少年少女聖歌隊が組織され,街中でも唱うので一般人も口ずさんだとも報ぜられている。それらはグレゴリオ聖詠であった。キリシタン版『サカラメンタ提要』(1605)に5線譜のグレゴリオ聖詠の楽譜が伝えられ,それに対応する「ミサ答へ」の写本も伝存する。現在も平戸生月のかくれ切支丹間に「歌オラッショ」として伝承されている。器楽ではヴィオラ・クラヴォ・フラウタ(フリュート)が広く用いられ,安土セミナリヨで織田信長が生徒らの演奏を楽しんだと記録される。パイプオルガンも1579年(天正7)に輸入された。とくに天正遣欧使節の帰国によって洋楽が広く知られ,豊臣秀吉も使節らを引見,その演奏を楽しんだ。特筆すべきは1600年(慶長5)ごろからセミナリヨで竹のパイプを用いたオルガンが製作され,主要教会に設置されていたことである。
【風俗】キリシタン伝来は風俗にも大きな影響を与えた。前記『知耻篇』の記すように年中行事・通過儀礼が南蛮化しただけでなく,服飾では南蛮笠・ジュバン・ボタン・カルサン(もんペ)・カッパ(合羽)・ビロード・サントメ縞・カナキン・メリヤス・ラシャ・サラサなど,食品ではパン・カスティラ・コンペイトウ・テンプラなど,方言に残る南蛮柿(いちじく)や廃語となったが当時ワカvacaとしてもてはやされた牛肉の鋤焼など若干を採り上げただけでも,その影響力が知られよう。タバコもフランシスコ会士により鎮静剤として導入されたものである。遊戯には天正カルタ・ウンスンカルタなどトランプ類が流行。調度品では陶磁器・漆器類に南蛮図案が愛好せられ,『歌舞妓草紙絵巻』にもみられるように,ロザリオを掛けた若衆など,メダル・クルスなどが装身具として流行した。大名級のなかにはローマ字印章も行われ,未信者でありながら洗礼名を真似した例も伝えられている。墓碑も西欧式蒲鉾型やクルスそのほかキリスト教的モノグラムを刻したものがあり,潜伏時代になるとわずかにクルス紋を陰刻して地面に埋めたものもみられ,信者の悲痛な心情を示している。
〔参考文献〕海老澤有道『南蛮文化』1966,至文堂
海老澤有道『南蛮学統の研究(増補版)』1978,創文社
海老澤有道『切支丹典籍叢考』1942,拓文堂
海老澤有道『洋楽伝来史』1983,日本基督教団出版局
岡本良知『吉利支丹洋画史序説』1953,昭森社
岡本良知『南蛮屏風考』1955,昭森社
岡本良知『南蛮美術』1965,平凡社
岡本良知『十六世紀における日本地図の発達』1973,八木書店
西村貞『日本初期洋画の研究』1945,全国書房
新村出『日本吉利支丹文化史』1941,地人書館
土井忠生『吉利支丹語学の研究』1942,清文社
土井忠生『吉利支丹文献考』1963
姉崎正治『切支丹宗教文学』1932,同文館
天理図書館編『キリシタン版の研究』1973,天理大学出版部
古賀十二郎『長崎市史風俗篇』1925,長崎市役所