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●キリシタン学校 キリシタンがっこう

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 日本にキリスト教を伝えたイエズス会は,1540年創立以来,教理教育はもちろん,学校教育を重んじ,その“会憲”にも規定している。1551年ローマ大学,翌年ゲルマン大学を設立したのをはじめとし,各地に中等程度のセミナリヨ・コレジヨを続々と設立。そこが修道会管区本部とされるように,布教と学校教育とが並行的に進められる。それとともに『イエズス会研学規程』を作成し,世界各地のイエズス会教育の経験を徴して改訂を重ね,1599年に正式に制定した。それはセミナリヨにおける基礎的教育から,専門課程のコレジヨにいたる組織的・系統的学制で,世界教育史上,画期的なものであった。また,そこで教授され研究される学芸は,神学を頂点とするが,自然科学などにおいて,中世的錬金術や占星術的であってはならず,実証的・科学的であるべきことも規定しており,まさに近世教育の先駆をなすものであった。

 イエズス会創立者の一人であるザヴィエルは,1548年(天文17)最初の日本人キリシタンとなったヤジロウをして総会長ロヨラにあてた書簡中に,日本にもコレジヨが建てられるよう希望を表明させており,来日して1年余の1551年,布教根拠地と定めた周防山口にコレジヨ設立を企画している。不幸にして資金繰りができず成功しなかったが,後継者トルレスの下に,1559年(永禄2)以来,豊後府内(大分)をはじめとし,全日制の初等学校が各地に開設され,約20年を経た天正中期には,西日本の諸教会に付属して約200校を数えるにいたった。1校数十名から百数十名程度の生徒数であったが,累計的には幾万とも知れぬ多くの少年少女が新思想・新文化に接した事実は注目さるべきである。永禄末年ごろ肥前五島で編された教科書『貴理師端往来(仮題)』写本が現伝するが,鎌倉期以来の『庭訓往来』を換骨奪胎,キリシタン的に編集したもので,地方におけるキリシタン庶民教育の模様を偲ばせる。

 初等教育の成果は当然中等教育を必要とする。1579年(天正7)来日した巡察師ヴァリニァーノは,日本人の才能を高く評価し〈教育により西欧科学をヨーロッパ人以上に理解するであろう〉と述べ(『日本巡察報告要項』),日本教会を日本人の手に任せる方針を打ち出し,日本人聖職者養成のためにもセミナリヨの設立を図った。そして1580年に肥前有馬と近江の安土とにセミナリヨ,府内にコレジヨを創設。また豊後臼杵にノビシァード(修練院)を設けた。これらは本能寺の変(1582)・伴天連追放令(1587)など変転する政教事情,そしてやがて激しい迫害のために十分成果を収めたとはいい難く,1614年(慶長19)の大追放によって閉鎖せねばならなかった。が,そこで組織的に教授された最新の西洋学芸・文化は,日本近世文化の誕生と称すべきものがある。その具体的成果は,天正遣欧少年使節,なかでも原マルチノ・中浦ジュリアンの事績もさることながら,通事伴天連として秀吉・家康とも接渉したロドリーゲスに最も示されているといえよう。彼は16歳で日本に渡来し,日本イエズス会コレジヨで成業,パードレになった人で,その編になる『日本大文典』・『日本小文典』(1620)の日本語の文法学的体系化,また『日本教会史』第1部第1巻における日本人の生活に対する民俗学的記述,とくに礼儀作法,詳細な茶道の解説など,日本人もおよばぬものがあるばかりでなく,第2巻の日常の学芸,とくに数学・天文暦学に関する高度の自然科学的記述は,彼の才能のみならず,当時の日本コレジヨの高い学的水準を語るものである。事実,修学修士のために日本イエズス会管区長ゴーメスが1593〜94年に編した『神学綱要』は,1595年の平稿本によると,第1部「天球論」,第2部「アリストテレス霊魂論他」,第3部「カトリック教理綱要」とから成り,宇宙論・人間論・教理学を科学的・哲学的・神学的に講じたもので,きわめて高度の内容であったことが知られる。そのほか,キリシタン版のラテン語の諸書や『倭漢朗詠集』『太平記抜書』などはテキストとされたものであり,辞典類は1580年以来のセミナリヨ・コレジヨの協同作業で完成したもので,当時のキリシタン学校の学的水準を示すものである。

〔参考文献〕シリング,岡本良知訳『日本に於ける耶蘇会の学校制度』1943,東洋堂

海老澤有道『南蛮学統の研究(増補版)』1978,創文社

海老澤有道「天主教伝来とその教育活動」『近世東アジア教育史研究』1970,学術書出版会