●ギリシア・トルコ戦争 ギリシア・トルコせんそう
ヨーロッパ ギリシャ共和国 AD
ギリシアはオスマン=トルコから独立した上に,宗教的にも,ギリシア正教とトルコの回教に分かれ,近現代において,しばしば衝突して紛争をおこしている。【1897年】クレタ島の所属をめぐってのギリシアとトルコの戦争。クレタ島は13世紀からヴェネツィアが領有していたが,1669年,オスマン=トルコが占領した。その結果,トルコ人が入植してイスラーム教をひろめたが,伝統的にギリシア住民が多く,ギリシア正教と共存する形となった。ギリシア人は1821年からのギリシア独立戦争に参加して,ギリシアヘの所属を希望したが果たせず,1867年に自治を認められたが不満が残った。1897年2月,宗教や税負担に不満をもったギリシア人が,クレタ=ギリシア人委員会とエトーニケ=ヘタイリアを中心に,トルコ人の騒動に対抗して反乱をおこした。世論をうけて,ギリシア政府は2月10日,軍隊を送った。イギリス・フランス・オーストリアなど6カ国は,クレタの自立と引き換えに,ギリシア軍を撤退させようと,3月18日から,クレタ島を封鎖したが,ギリシア・トルコ両国の世論はこれに刺激され,4月17日に宣戦した。戦争は圧倒的にトルコ軍の勝利に終わり,ギリシアは敗戦が決定的になると,6カ国に調定を依頼し,5月19日には停戦協定が成立した。この間,セルビア・ブルガリアがトルコに加担して動く様子をみせたので,4月30日には,オーストリアとロシアはペテルブルグで,バルカンの現状維持についての声明を出した。正式の休戦条約は9月18日,コンスタンティノープルで結ばれ,ギリシアは400万ポンドの賠償金を払い,クレタ島の一部を自治のギリシア人区とすることになり,クレタ島のトルコ宗主権が認められた。
【1921〜23年】第一次世界大戦終結時におこったトルコ革命派とギリシアの戦争。1920年8月10日,トルコのスルタン政府は屈辱的なセーヴル条約に調印した。ギリシアは1919年5月15日にスミュルナに上陸して占領し,セーヴル条約交渉中にも,イギリスの支援をえて,6月24日にアラシェールで,7月9日にはブルサでトルコ軍を破り,アドリアノープルを包囲した。1919年5月,アナトリア=ルメリア権利擁護団を組織し,民族的抵抗を開始していたケマル=アタチュルクは,1920年8月にアンカラで国民会議を開いて,スルタン政府を否定し,セーヴル条約を無視するとともに,国土を守るためにギリシアと戦う決意を固めた。ギリシアはなおも攻勢に出て,1921年3月にはアフィウム=カラヒサール,6月にはクタヒアを占領したが,トルコ国民軍は1922年8月24日から9月16日にかけてのサカリアの戦いでギリシア軍を破り,同じ時期にアフィウム=カラヒサール・ブルサを奪回した。さらにトルコは,9月9日〜11日にスミュルナを奪い,11月にはアナトリアからギリシア軍を撤退させるのに成功した。ケマル=アタチュルクは,1922年11月1日にスルタン制廃止の宣言を発し,モハメット6世はイギリス船でコンスタンティノープルを離れた。その上で,1922年11月20日よりローザンヌ会議をもち,1923年7月24日にいたって,セーヴル条約よりはるかに有利なローザンヌ条約を結び,スミュルナ・コンスタンティノープルなどの回復を果たした。