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●ギリシア正教 ギリシアせいきょう

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キリスト教は、ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝により公認され、テオドシオス1世により国教と定められた。以後1054年までは理念的には一つの統一体をなしていた。が、現実にはキリスト教は、広大なローマ帝国の西方(ローマ教皇)と東方(コンスタンティノポリスの総主教)を中心にして発達した。

【成立】ギリシア正教とは、その最も広い意味では東方におけるキリスト教全体をさす。したがって、ギリシア正教会東方教会または東方正教会とも呼ばれる。正教(Orthodoxia)とは、ギリシア語の「正しい(orthos)」と「信仰(doxia)」の二つの語からなり、西方のカトリック(ギリシア語のkatholikos、普遍的)に対応する。ギリシア正教の範疇には、ニカイア=コンスタンティノポリス信教を奉ずる正統派も、そうでない異端諸派も入る。すなわち、コプト教会アルメニア教会エチオピア教会ネストリウス派教会・シリアのヤコブ派教会などの、いわゆる東方分離教会がそれである。神秘的・形而上的発想を好むギリシア的気質に支えられたギリシア正教は、神学・教皇首位権および教会典礼上の慣習において、カトリックとは大きな相違を示している。神学論の争点は聖霊発出論であった。カトリックでは〈聖霊は父及び子より発する〉とするが、正教では〈聖霊は父のみから発する〉とした。また全キリスト教界の指導者は誰であるかを論ずる首位権論争では、ローマ教皇は聖ペテロ以来の伝統を背景に首位権を主張。他方、総主教は、第4回のカルケドンの公会議の決議(第28条)〈教皇と総主教は法律上は同等の地位にあり〉を楯に、ギリシア正教会の独立性を主張して譲らなかった。ギリシア正教会では、修道士以外の聖職者の非独身制が施かれ、ミサでは無伴奏の聖歌と酵母入りのパンが使用され、十字架はロシア十字架の使用、十字の切り方も3本の指をもって上下左右と定められていた。聖画はカトリックでは単に教育的目的にのみ使用されたのに対して、正教では聖画に神性を認めて、これを信仰の対象にまで高めた。政教分離を原則とするカトリックに対して、正教は政教一致を認める。すなわち、皇帝が地上におりる唯一人の神の代理者である。したがって皇帝には、総主教より優位に立つ神性が理念的には認められ、総主教の免任権も彼の手中にあるが、他方、彼は行政の最高責任者として、総主教や教会会議の決定を実施する教会や修道院の最大の保護者でもあった。正教の出発点は、内容的には第1回の公会議(ニカイア、325年)であり、形式的には初代総主教ネクタリオス(在位381〜397)の就任におくことができよう。

【過程】以後正教の歴史は、3期に大別できよう。[1]ビザンツ帝国時代(330〜1453)、[2]トルコ帝国支配時代(1453〜19世紀前半)、および[3]各民族教会の独立とその後。なかでも[1]は、正教の確立と発展を果たした点で最も重要である。正教をも含めた全キリスト教に通ずるキリスト神学の基礎は、東西両教会から認められた8回の公会議により固められた。なかでも最初の4回は、キリスト神学における正統論、いわゆる三位一体論を主張するニカイア=コンスタンティノポリス信教の確立に最も寄与した。第1回のニカイアと第2回のコンスタンティノポリス(381)では、神の子キリストの神性を否定するアリウス派が異端として退けられ、つづく第3回の公会議(エフェソス、431)では、キリストの人性のみを強調し、結果的にはその神性の否定に陥ったネストリウス派が異端とされた。さらに第4回の公会議(カルケドン、451)では、すべてのキリスト単性説が退けられ、三位一体の正統性が再確認された。異端論争は第6回の公会議(コンスタンティノポリス、680〜681)におけるキリスト単意説の断罪を以て終了した。がそれは、640年以後異端信仰の強かったシリア全域と、北アフリカ全土がイスラームの軍門に下り、帝国領外に去ったことに最大の原因がある。それまでは諸公会議の決定にもかかわらず異端論争は衰えず、正統派と異端派の和解をはかるため『ヘノティコン』なる統一勅令が、ゼノン帝と総主教アカキオスにより発布されるが失敗。ローマ教皇もこれに反対し、いわゆるアカキオスの分裂(484〜519)を生んだ。同様の試みはヘラクレイオス帝治下の『エクテシス』なる信仰勅令(638)があるが、これも失敗に終わっている。8世紀にはギリシア正教は、レオン3世およびその息子コンスタンティノス5世の聖画崇拝禁止令と対決しなければならなかった。政界や宗教界のみならず、すべての社会層に属する人々が関与したこの一大文化闘争は、およそ100年間も帝国の屋台骨を揺るがした。第7回の公会議(ニカイア、787)で聖画崇拝は復活、最終的には843年の首都の教会会議で確立され、正教はその伝統的聖画信仰を墨守することに成功した。が歴代のローマ教皇は、つねに皇帝および総主教の聖画崇拝禁止運動に反対の立場をとり、ビザンツ帝国内の修道士層を中心とする聖画崇拝賛成派の人々と歩調を同じくしたため、東西両教会の溝は深まった。聖画崇拝禁止運動の嵐が過ぎ去ると、漸く正教の発展期が訪れた。すなわち、860年代にはテッサロニキの聖職者キュリロスメトディオス兄弟は、ギリシア語を土台にスラヴ語のアルファベット(キリル文字)をつくり、聖書をスラヴ語に翻訳し、バルカン半島の諸スラヴ族に正教を伝えた。彼らはのちに“スラブの使徒”と呼ばれるほどの成功を納めた。864年には、ブルガリアのボリス=ハン汗が受洗、869〜870年には、ブルガリア教会はコンスタンティノポリスの総主教の管轄下に入った。セルビアもムティミール王(在位843〜891)のとき、正教を国教として受け容れた。957年には、キエフ公国の女帝オルガが総主教より受洗され、988年には同しくウラジーミル大公が受洗し、正教を国教とした。ここにコンスタンティノポリスを中心に、ギリシア正教文化圏ともいうべきものが出現し、ビザンツ皇帝は長くその盟主として君臨した。

【アトス修道院】正教は国内でも隆盛期を迎えた。10世紀半ばのアトス修道院群の繁栄である。聖アタナシオスが、ニケフォロス2世の支持のもとに、アトス山中に大ラウラ修道院の建設・経営を、免税特権賦与のもとに許されてより(963)、以後続々と大小の修道院が建てられ、11世紀初頭にはその数は60にものぼった。形式的には、アトスの修道院は総主教の管轄下に置かれたが、実際には20の大修道院の院長たちによる自治が認められた。ビザンツ帝国が滅んだ後、トルコ帝国の支配下にあってもアトスの修道院は良く正教の伝統を守り、1829年のギリシア独立後もギリシア政府の保護下に置かれ、独立した共和国として認められ今日にいたっている。1054年の大分裂の前後には、東西両教会の神学上・典礼上・慣習上の相違は、9世紀後半のフォティオス論争、つづく3回の十字軍の帝国領内通過の際のトラブルを機に一気に表面化した。そして、1204年の第4回十字軍が首都を占領し、ギリシア正教徒にカトリックヘの改宗を強制したとき、双方の不信感は敵意と憎しみに変わり、抜き差しならないものになっていった。再興されたビザンツ帝国は、オスマン=トルコの軍勢に国の東西南北を固められ、皮肉なことに、ローマ教皇を通じて西欧の軍事援助を頼むよりほかに生き延びる道がなくなってしまった。教皇の仲介の代償は、教皇の首位権の承認であった。事実、1274年の第2回リヨン公会議や、1438、1439年のフェララ=フロレンツの公会議では、ビザンツ皇帝や皇帝の特使は、教皇の首位権を承認する公会議の決定に署名するが、国内の猛反対にあってその実効は薄かった。またそのため、軍事援助も得られぬまま帝国は終末を迎え、ギリシア正教もトルコ支配下に入り、新生ギリシアの独立後まで膝を屈していなければならなかった。

【その後】ギリシア正教は、今日ではギリシア正教会ロシア正教会・ルーマニア正教会・ブルガリア正教会・アルバニア正教会と、それぞれの国において独立した民族教会として存続し、日本でも「日本ハリスト正教会」が、1872年神田駿河台に本拠を置いて伝道に従事している。バルト海沿岸の諸教会・エストニア・フィンランド・ラトヴィア・ポーランド・チェコスロヴァキアにも、それぞれの独立したギリシア正教会が、ヨーロッパおよびアメリカ大陸と同様に存在する。


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