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●漁民 ぎょみん

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 四方を海に囲まれた日本列島には,昔から漁業に従事する人々が多かった。これらの人々は,大別すると,[1]古代の海人部(あまべ)の系譜をひく専業民,[2]半農半漁の人々,またそこから専業化した人々,それにごく少数ではあるが,[3]山窩(さんか)・又鬼(またぎ)などと呼ばれる,狩猟・漁労の生活を送る山間の漂泊民に分けられる。以下で時代を追って漁民のあり方を述べる。

【古代・中世】はるかな昔から海辺に住む人々が魚介類を捕食していたことは,各地に残る貝塚が証明している。古墳時代,『日本書紀』応神天皇5年8月の条に海人部を定めたとある。海人部は専業漁民で,海部直(あまべのあたい)の支配下にあり,中央に貢ぎ物として水産物を送っていた。9世紀中ごろに編集された『和名抄(わみょうしょう)』には,「海部(あま)」あるいはそれに類似した名の郡・村が17カ所ある。平安時代になると供御人と呼ばれる人々が,朝廷や貴族への貢進とひきかえに独占的に漁業権を得るようになる。鎌倉時代中期以降,座の発達に伴う流通の活発化によって魚介類の需要が増え,やがて関西地方を中心に沿岸漁業が発達してきた。

【近世】江戸時代になって魚肥の使用が始まり,また商業・運輸手段の発達によって沿岸漁業は最盛期を迎える。しかし漁業の大規模化に伴って従来の漁場総有制が崩れ,漁民は大漁株持ちと無株持ちに階層分化し,やがてそれは富裕な網元(網主・船主)と隷属的な網子(船子)となっていく。江戸時代後期になり農業生産が不安定になると,それまで漁業を行わなかった沿岸村落が漁業にも手を出すようになった。「沖は入り会い,磯は根付き」の原則はあったものの,漁民の増加や漁具の発達につれてしばしば村同士の漁場争いが発生した。

【近代】明治時代になり諸産業が急激に発展すると水産物市場も広がり,小商品生産者としての漁民層が形成されるとともに漁村と寒村が分離する。しかし明治10年代を中心とする原始的蓄積過程により漁村は疲弊し,また魚商(仲買・問屋)の支配により漁民は苦しみ,1891年(明治24)には1戸あたり3円61銭の負債を抱え,日雇いや行商などをしなければならなかった。大正時代になると,漁船の動力化による沖合漁業の発達や定置網漁業の改良を契機として資本家的網元・船主が進出するとともに,小漁民のなかから漁夫となる者が出てきた。1891年に13.5%だった漁業被雇用者は,1921年(大正10)には30.9%になっている。昭和になって沿岸漁業の漁船動力化が進むと,動力船を持てない漁民もまた被雇用者化していき,ますます漁民は分解していった。

【現代】第二次世界大戦で壊滅的打撃を受けた漁業も,資本制漁業への政府の保護・援助のおかげで,企業的漁業においては急速に復興した。しかし個人的漁業は,戦後の食糧不足やインフレが収まるとともに再び不振となっていった。漁民の大部分は兼業をもっており,専業は23%にすぎない。兼業のうち75%は農業で,大半の漁民は漁業と農業の兼営で暮らしを立てているといえよう。漁家は漁業経営に必要な資材のほとんどを購入しなければならず現金支出が多いが,大部分の漁家では漁業だけでは生計を維持できず,漁業外収入もしくは他人の漁業に雇われた労賃で補てんしている。企業的漁業で働く漁業労働者は漁期ごとに雇用される季節労働者的なものと,年間を通して同一企業に雇用されるものに分けられる。前者には網元(船主)に地縁・血縁的関係で雇われる者と兼業漁家の漁民が含まれ,雇用関係は前近代的である。後者にあっては同一経営内の労働者が多いほど賃金労働者的となり,企業内労働組合あるいは企業横断的労働組合のあるものもある。賃金は歩合で支払われるのが普通であった。漁獲の販売総額から経費を引き,残りを一定の比率で分配するのだが,漁獲高が経費に達しないときは労働者の債務となる。しかし現在ではこのような分配方法も改められつつあり,徐々にではあるが固定給制に近づきつつある。