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●巨文島事件 きょぶんとうじけん

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 巨文島(ヨーロッパ人はポート=ハミルトンと呼ぶ)は全羅南道の高興半島の南に浮かぶ三つの島から成る小群島であるが,ここは朝鮮海峡を制する要地のため,イギリスは1885年3月から1887年2月までの2年間ここを占拠した。なぜ,このような事件がおこったのだろうか。ロシアは1860年に沿海州を領有して,浦塩港(ウラジヴォストーク)の建設をするが,一方その艦隊を南下させて朝鮮の東海岸に出没したので,一時は永興港占拠説まで噂された。そこでイギリスは1882年の朝英修交交渉の時点で,巨文島の租借を提議したことがあった。1884年6月に朝ロ修交条約が締結されてからは,駐朝ロシア代理公使ウェーベルの外交活動が活発になった。彼はたびたび朝鮮宮廷に出入して親露派の育成につとめた。1884年10月に甲申政変がおこり,日清の衝突(わが国では明治17年の事変と呼んだ),その後の清の内政干渉,日本の経済的進出を快く思わぬ朝鮮宮廷・政府は日清両勢力を排除するため第三勢力の必要を感じ,宮廷では親ロ抗清策に動かされて1885年2月にロシアとの秘密協定を結ぼうとした。朝鮮はロシアの保護権と軍事教官の派遣を交渉したが,ロシアはこれを好機として軍事教官の派遣を承諾したが保護については明言せず,その代わりに永興湾の提供を求めた。当時,英ロ関係はアフガニスタンの国境問題で極度に緊張していたので,極東におけるロシアの南下政策はイギリスの極東利権に脅威をあたえた。そこでロシアの極東艦隊の通路を遮断する目的で,イギリスの東洋艦隊は1885年3月突然巨文島を不法占領し,要塞工事を行うとともに,朝鮮でロシアにどのような譲歩もしないように清国政府に要求した。ロシアの進出を恐れる清国はイギリスの行為を黙認していたが,朝鮮における宗主権の維持確保を必要とする清国はイギリス・ロシア両国の仲介を行い,ロシアが将来も朝鮮領土を占領しないことを条件に,イギリスは1887年2月にようやく撤退した。

〔参考文献〕田保橋潔『近代日鮮関係の研究』下