●享保の改革 きょうほうのかいかく
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江戸幕府8代将軍徳川吉宗(1684〜1751)在職中に行われた幕政改革。7代将軍徳川家継の没によって紀伊藩主から将軍となった吉宗は、前代からの重職にいた者を解任し新井白石をも退けた。1722年(享保7)老中水野忠之を勝手掛に任じ、上米の令を出して改革を始める宣言をした。享保改革の前には現象面において財政難がみられたため、改革における政策の中心としては財政ならびに経済政策が著しくみられた。そのためまず倹約令が出され、支出の抑制がはかられた。吉宗は公私ともに費用の節約につとめ、一般に対しても身分格式に応じた倹約を強制した。上米の令は参観交代をゆるめるという方法をとってまでも実施したもので、収入の増加を期待したものであった。1730年(享保15)収入増という一応の成果をあげたので、廃された。享保改革は吉宗就任から享保7年までを前期とし、同7年から15年までを中期、そして15年以降を後期とみることができる。とくに中期がいわゆる“改革期”といえよう。支出の抑制がはかられるとともに収入の増加にも目が向けられ、新田開発や年貢増徴が試みられている。新田開発の奨励は、各地で町人の資本に依存するいわゆる町人請負新田の形式がとられたものが比較的多く、たとえば武蔵野新田は享保期に誕生したものが多い。年貢増徴は、従前の検見法から定免法に改められて年貢収納の確実化をはかるとともに、税率も四公六民から五公五民へと強化された。このようにして年貢収納が増加したが、一方で米価下落という困難な事態につき当たった。米価安の諸色(ほかの物価)高といわれる状態が出現したのである。米価が享保期になって著しく下落したのは一つの理由だけでは説明できるものではない。正徳期に実施された良質貨幣の発行が享保期にもひきつがれたところにも理由があった。良貨を得るために各地の大名が領国の米を大坂などの中央市場に集中的に廻米したのである。さらに生産の増加にもかかわらず需要が伸びなかったことなどもあった。このように米価が下落したにもかかわらず、諸色といわれるほかの物価は下落せずむしろ上昇気味であった。そのため享保9年と11年に相次いで物価引下げ令が出されている。幕府は米価を引き上げるために努力し、流通ルートの整備や米の空米取引の容認を認めて大坂堂島米市場を公許したり、酒造奨励・廻米制限・米の公定価格設定などが実施された。けれどもさしたる効果がみられなかったので、元文の貨幣改鋳で貨幣の質を落とすなどして米価の引き上げにつとめ、ようやく効果がみられるにいたっている。このほか享保改革における行政面では、足高の制による能吏の登用、『御触書寛保集成』や『享保撰要類集』など法令の編さんや刑律の制定(『公事方御定書』)、さらには目安箱の設置など注目すべきものが多くみられた。さらに享保初期に令せられたものとして“相対済し令”や“質流れ禁止令”などがあるが、それらはすぐに撤廃されている。家康の御三家設定を範とした御三卿の設置も注目すべきものである。吉宗によって実施された享保の改革は〈御恥辱をも顧みられず〉に令せられた上米の令にもみられるように、真正面から取り組まれた優れた政治とみてよかろう。事実、とにかく彼の在位中に石高(54万石増)・年貢額(28万石増)ともに増加をみているのである。幕藩体制がこれによって一時的とはいえ強化されて政治が安定し財政難が緩和されている。新田開発にみられるように、幕府の財政が都市商人の資本と密接な関係をもったことも当期の特徴である。たしかに一揆の激発という事態もあったし、改革の発想はきわめて領主的なものであったことは否定すべくもないが、「中興の英主」といわれる一面をもっていたことは明らかであったといってよいであろう。
〔参考文献〕辻達也『享保改革の研究』1963、創文社
土肥鑑高『改革の虚像』1971、秀英出版
