●共同幻覚 きょうどうげんかく
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数人の者が,同時に何者とも知れぬ声を聴いたり,その人物や妖怪などをみたりする体験を,柳田国男は「共同幻覚」ということばで呼んでいる。大別すると,幻視と幻聴に分けられる。幻視は,人が死ぬ前後に幻となって近親者を訪れたのを数人の家人がみたとか,山へ炭焼きに行って,あちこちで炭焼きの火がみえるので近寄ってみたが何もなかったとか,夜電灯をつけた汽車が車輪の音高くトンネルに入ったまま出てこなかった,といった話として伝わっている。凶事の前兆とされる火の玉や人魂も,村人の信仰として捉えれば共同幻覚であり,海辺では難波船の幻覚についての舟幽霊の話がよく語られる。幻聴は,深山へ行って野宿したり小屋に泊まったりしたときに,大きな樹の伐り倒された音がして,後でそこへ行ってみると何の痕跡もなかったというような,天狗タホシ,空木ガヘシの話として伝わっている。山の神の太鼓とか,天狗のテントウ祭りといって,太鼓を叩くような音が山中で聞こえるという話も多い。こうした幻聴は,天狗・山の神・河童など,神や妖怪のしわざと考えられていた。総じて,共同幻覚は,生業の手段が同じで,個人差の少ない地域社会において人々の認識に共通の理解があり,多数の人々が同じ状況下にあるときにおきる可能性をもっている。問題は,その幻覚の種類・内容,そのときと場所,雰囲気・説明の仕方とその変遷のあり方である。共同幻覚に対する解釈と理解を手掛かりとして,村人の信仰形態や社会関係が,どのような表現をとって現れてくるかを探り出すことができるのであり,常民の心意を知る大切な資料とされる。幻覚・幻聴のほかに,共同幻覚に類似したものとして夢がある。一家一門の同じような悩みを抱いた人々が,ときと場所を異にして同じ夢をみて,のちにそれを語り合ってますますその信仰を固めるといったことがらが,近世の随筆などに散見している。柳田は,『明治大正史世相篇』「新色音論」では,遠く離れた家族同士が共同の夢や幻覚をみる場合も,共同幻覚に含めて考えている。夢や伝承が,共同のものとして伝えられるところにその役割の重要性を認めていたのであり,普遍的な伝承のあり方を規定するものとして注目される。柳田によれば,共同幻覚は,第1に,〈似かよった境涯に生きて居ると,同じような心の動きが起る〉,第2に〈甲の印象は鮮明で強く,乙丙は弱くして漠然たる,稍々近い感じを受けて居るに過ぎぬ場合でも,一人が言い出すと自然に其気になり,また段々さう思ふやうになる〉,(『口承文芸史考』「夢と文芸」)のいずれかによっておこると考えている。第1は,社会の深層心理の問題であり,常民のエートスの理解に関わるものであるが,柳田は,第2の考えが,夢が文芸に移っていく経路として妥当であるとし,文芸の発生論にまで展開していることも興味深い。自己の幼年の神秘体験から出発した柳田は,自己の体験を異常心理とせずに,客観的に対象化するなかから,伝承の論理とその発生を共同幻覚として把握する方法を示唆したのである。吉本隆明は,共同幻覚を一歩進めて,共同体編成の原理としての「共同幻想」の概念を呈示し,より政治的・社会的意味合いの濃い,一種のユートピア論を展開した(『共同幻想論』)。『遠野物語』と『古事記』を検討し,とくに村人の心意のなかに宿る山人の存在の意味を純粋に抽出するなかから,共同体における禁忌と黙契,恐怖の共同性という視点を呈示する。共同幻覚の概念は,伝承の論理の発生と展開,共同体のあり方を問う試みを可能にするといえる。日本の村落だけでなく,都市においてもほかの民族においてもみられる共同幻覚は,千年王国運動・神話や夢の構造・集団の狂気など,広範な文化現象を探るための基礎概念となる。
〔参考文献〕柳田国男「口承文芸史考」(1947)『定本柳田國男集』6,1968,筑摩書房
吉本隆明『共同幻想論』1968,河出書房