●匈奴 きょうど
アジア モンゴル国 AD
前4世紀末から後5世紀にかけ,モンゴリアに拠って繁栄した騎馬遊牧民族。民族の系統は,言語などから,モンゴル系・トルコ系あるいはコーカサス系などの説があるが,なお定説をみない。ただ,北アジアにおける民族分布の大勢からすると,その中核はモンゴル系と思われる。【匈奴の発展】匈奴は中国の西周(前1050?〜前770)・春秋(前770〜前403)時代は,現在の長城地帯の北方あるいは西北方の砂漠地帯で,原始的な遊牧生活をしていたらしい。当時その南方には,中国民族と同一の人種系統に属するらしい,薫粥(くんいく)・犬戈などと称する牧主農副の民族が拠っていたが,これら民族は,新石器時代からもたらされた金属製武器を用い,物博な中国内の都市国家としだいに対立するようになった。長城地帯におけるこのような動きは,おのずから匈奴にも及んでくる。このため匈奴人もようやく開明に向かい,とくに前5世紀ごろから,先進のスキタイ文化,とりわけ彼らの活動に好適の武器類や車馬具類の影響を受け,だんだんと強盛におもむいた。そして,遅くとも戦国時代(前403〜前221)中ごろまでには,長城地帯に先住する諸民族を制圧するにいたったらしい。 匈奴の名が中国史上に現れるのは,前318年,韓・魏・趙その他が匈奴を率いて秦を攻撃したときであるが,その後匈奴は,根拠地のオルドスから出て燕・趙・秦などの戦国諸国に侵入し,これら諸国はそれぞれ塞・長城を築き,その防御につとめた。
中国では,やがて秦が六国を滅ぼして全土を統一したが,匈奴ではこのころ,頭曼単于(万人長の意)が出て急に強盛となり,東は興安嶺以東に拠った東胡と,西は甘粛以西に割拠した月氏(げっし)とともに,三者併立の形勢をなした。なかでも匈奴は最も優勢で,黄河以南のオルドスをもその支配下に置いた。だが秦の始皇帝は中国統一の余勢をかり,これを伐ってオルドスの北に駆逐し,甘粛から黄河の北側にそって長城を築き,燕・趙の長城を修復して遠く南満州に及ぶいわゆる万里の長城を完成した。これは騎馬戦を得意とする匈奴の防衛にはある程度効を奏した。ところが,秦はやがて瓦解し,中国は再び混乱状態に陥った。この期にあたり匈奴に現れたのが昌頓(ぼくとつ)単于である。彼は中国内部の紛乱に乗じて長城を越え,秦に奪われた匈奴の故地を回復したほか,東は東胡を伐って滅ぼし,西は月氏を攻めてその勢力を一掃し,北はトルコ系の諸部族を次々に降して,内外蒙古にまたがる一大国家を建設した。
【国家の崩壊】その後匈奴は,前漢とも激しい抗戦を展開したが,呼韓邪(こかんや)単于のときついに和約が成立。この結果,長城をもって両国の境とし,匈奴は漢に対して臣礼をとる一方,毎年,多額の物資を漢から受けることとなった。ところが,漢に代わった新(9〜22)の王莽(おうもう)が,華夷思想にもとづいて外族の待遇を降したことから,匈奴は恨みをいだいて再びそむき,さらに東トルキスタンの城郭都市も相ついで匈奴に同調した。ただし,このころより匈奴の統制はしだいに弛んで内訌が頻発し,後漢の光武帝のときには日逐王の比が独立して単于を号し(48),やがてその部衆とともに後漢にくだったので,光武帝はこれを長城の南に移して,北辺の防衛にあてることとした。
一方,モンゴリアに残留した北匈奴は,オルホン河畔に王庭を設け,後漢も天山南路の領有を争ってしばしば戦った。ところが,当時しだいに台頭しつつあった鮮卑(モンゴルとツングースの混血)は,北匈奴を攻めて単于を殺し,また,北からは丁零,南からは南匈奴がそれぞれ攻撃を加え,さらに後漢の軍がアルタイ山中においてこれを撃破したので,北匈奴はついにイリ川の流域に逃れた。これがやがて西方に侵入し,ヨーロッパ中世の序幕ともいうべき民族大移動の口火となったフン族である。
ところで,上記の匈奴の中国侵入および漢匈両国の交戦については,従来,その原因がすべて匈奴側にあったかのごとく伝えられているが,真相は必ずしもそうとはいえない。多分に,中国人の伝統的な夷狄観による解釈と思われる面もあり,個々の事象につき詳細に検討を加えなければ,一概に容認するわけにはいかない。
〔参考文献〕内田吟風『北アジア史研究−匈奴篇−』1975,同朋社
ヘルマン=シュライバー,金森誠也訳『アッチラ王とフン族の秘密』1977,佑学社
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