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●強制栽培制度 きょうせいさいばいせいど

ヨーロッパ オランダ王国 AD 

 19世紀中葉にオランダによってインドネシアで行われた輸出向け農産物の義務栽培政策の通称。その背景と概要,およびてん末は以下のとおりである。

【時代背景】17世紀以来,東インド諸島とヨーロッパとの貿易を支配してきたオランダ東インド会社は,累積赤字による経営の破綻と,フランス革命の影響下にオランダで勃発した政変のため,18世紀末にはその解散が決定され,領土・資産・債務のすべてが国家に移管されることになった。19世紀に入ると,ナポレオン戦争のさなかにイギリスがジャワを占領する(1811〜1816)など,オランダの東インド支配は動揺と不安定にさらされた。とくに,東インド会社時代からの債務の累積とジャワ(ディポヌゴロ戦争,1825〜1830)や西スマトラ(パドリ戦争,1820〜1837)における反オランダ蜂起の続発による軍事支出の増大がもたらした植民地財政の危機は深刻であった。加えて,進んだ商工業地帯を擁する南ネーデルラントが,1830年にベルギー王国として分離・独立を宣言したことは,本国の財政にも大きな打撃を与えた。

【いわゆる強制栽培制度の導入】1829年に東インド総督として赴任したファン=デン=ボスは,国王ウィレム1世の支持のもとに,前任者デュ=ビュ=ドゥ=ギシニーの企画した民間企業家による自由主義的植民地開発構想をしりぞけ,東インド会社時代以来西部ジャワのプリアンガン地方で行われてきたような農産物の義務供出制度を,植民地政府の管掌下にジャワの全域とスマトラの一部に拡大する方針を採用した。これが,いわゆる強制栽培制度の開始である(ただし,kultuurstelselという語が公式に用いられたことはない)。1834年に法定された原則によれば,住民との契約にもとづいて,村落の総耕地面積の5分の1をヨーロッパ市場向けの農作物の栽培に提供させると同時に,その作物の生産に必要とされる労働力も住民自身に,彼らの首長の指揮下に提供させ,生産物を公定の評価価額で政府に引き渡すことを義務づけるというのが,この制度の骨子であった。

【輸出作物の増産と財政的寄与】ヨーロッパ向け作物として最も重視されたのはコーヒー・甘蔗および藍であり,これら3作物の輸出額は1830年代以降飛躍的に増加した。1840〜1850年代に強制栽培制度下で実際に動員された労働力と土地は,ジャワの場合,総戸数の4〜6割,全耕地面積の4〜6%であったと推定されている。住民から首長を通じて植民地政府が取得した生産物は,政府が指定した工場で加工されたのち,ネーデルラント通商会社の手で輸出された。同会社から植民地政府に払い込まれた利益は莫大なもので,植民地財政は大幅黒字となり債務を一掃しえたばかりか,その「帳尻剰余金」を本国財政に組み入れる制度を通じて,オランダの財政再建と資本主義発展にも大きく貢献した。

【ジャワ社会の変容と制度の廃止】強制栽培制度の時代にジャワの農村社会は大きな変化を遂げた。人口の急増と村落機構・土地制度の再編成は,その最も顕著な現れである。おそらくこの時期に,ジャワの農業生産力は著しく拡大した。しかし,剰余生産物のもたらす富の大半は,オランダおよびそのエージェントと化した首長層によって吸い尽くされた。農民にとっては苛斂誅求の時代でもあった。1848〜1849年に中部ジャワの北海岸の一部を襲った飢饉は強制栽培制度による農村の疲弊の結果といわれ,1860年代に発表されたダウエス=デッケルの小説『マックス・ハーフェラール』は,西ジャワのコーヒー栽培の実態を暴露した。オランダ議会内でも自由主義的立場からの反対が強まり,1854年の新「東インド統治規則」で強制栽培制度の将来における廃止が明記されたのち,1860年代以降は漸次縮小・廃止の途をたどり,民間企業によるエステート経営に席を譲っていった。