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●教授・学習過程 きょうじゅ・がくしゅうかてい

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 教授・学習過程とは,授業を,教授活動と学習活動の弁証法的に統一された過程として,すなわち,教師の教えるという活動と子供の学ぶという活動とが,それぞれに独自な役割や機能をもちながら,不可分に結びついた相互作用の過程としてとらえることをいう。

 こうしたとらえ方は,現代の教授学が,授業過程を理論的に,また実践的に明らかにすることによって生まれてきた。教師の教授活動と子供の学習活動との双方を含んだ単語として,ドイツ語では,ウンターリヒト,ロシア語では,オブウチェーニエということばがある。

 わが国においては〈教授・学習過程〉という用語とまったく同じ意味で,つまり,子供の学習活動をそのなかに含んだ用語として〈教授過程〉ということもある(この場合,〈教授〉は広義の概念である)。

【発達観と教授・学習過程】教授と学習との統一をめぐるこれまでの理論的解明は,子供の発達における外的規定要因と内的規定要因との統一をめぐっての理論の発展と深く結びついている。

 〈注入主義的発達観〉は,もっぱら外からの働きかけによって人間の発達は促進されるという考え方であり,機械的な環境決定論といってもよい。この発達観にもとづくならば,授業は,教師が知識を一方的に注入し,伝達する過程とみなされる。教師中心主義・教科書中心主義,知識の注入主義・暗記主義の授業がそれである。この授業観は,授業を教師の教授活動と同一化し,したがってそこでの子供の学習活動は,もっぱら教師の伝達・注入する知識や技能を受け身的に受容することにとどまってしまう。

 これとは反対に,〈自発主義的発達観〉は,もっぱら,子供の本能・衝動・興味・関心といった,内的なものにもとづいて発達は生じるという考え方である。この発達観は,つまるところ,生物学主義的な素質決定論と結びついているといってよい。教師中心主義・書物中心主義の教育から児童中心主義の教育へという〈教育におけるコペルニクス的転回〉を求めた20世紀初頭の,世界の〈新教育〉運動は,この発達観と深く結びついて,児童中心主義的授業観を生みだした。この授業観は,授業を子供の学習活動と同一化し,子供の興味や関心が絶対視され,教師の活動は,もっぱら子供の自発的学習を最小限に〈援助〉することに制限される。

 人間の発達・子供の発達は,ただたんに〈外的なもの〉のみによって規定されるものではなく,また,もっぱら〈内的なもの〉のみにもとづくものでもなく,人間の発達は,内的なものと外的なものとのダイナミックな相互作用によって惹きおこされるという〈弁証法的発達観〉が,今日,科学的な発達観として明らかにされてきている。

 〈教授・学習過程〉としての授業は,まさしくこの弁証法的発達観にもとづいており,教師の教授活動と子供の学習活動とが,弁証法的に統一された過程として授業をとらえようとするものなのである。

【認識過程としての教授・学習過程】教授・学習過程としての授業は,教師の教育的指導のもとで,教材を媒介して,人類の文化遺産としての科学・文化・芸術・技術などの〈基本〉を子供たちが新たに,かつ能動的に修得していく過程である。教授・学習過程は,子供の思考や認識を感性的なもの・生活的なものから理性的なもの・科学的なものへとつくりかえ,高めていくことを重要な課題としている。しかし,その過程は段階的・直線的なものではなく,感性的なものと理性的なもの,生活的なものと科学的なものが,前進と復帰をたえず繰り返しながら発展・深化していく。そのことを通して,子供の観察力・想像力・思考力などが発達していくのである。

 ところで,認識過程として教授・学習過程をとらえる際に,子供の認識活動と大人・科学者の認識活動との異同が問題となる。

 近代の教授学は,ややもすれば,授業における子供の認識過程・認識活動を大人や科学者のそれと峻別して,〈発達段階に即する〉ということでもって,その違いを強調してきた。しかし,客観的事実の分析と総合・比較・一般化など,認識過程においてはたらく基本法則は,教授・学習過程における子供の認識活動にも貫いていなくてはならない。

 〈科学〉における認識過程と,教授・学習過程としての〈授業〉における認識過程とのあいだの密接な関連を考えるとともに,教授・学習過程の本質にもとづいた違いについて留意する必要がある。認識過程としての教授・学習過程の基本的な特質は,[1]教師の指導のもとで,比較的短期間に,人類の遺産の基本を修得すること,[2]すでに明らかになっているものを子供たちは追認識・再発見するということ,[3]結果としての知識の蓄積だけでなく,それを基礎とした知的能力や技能の発達が求められること,である。【集団思考と教授・学習過程】授業における子どもの認識過程・認識活動を断片的な知識の蓄積過程や受動的な修得過程にしないためには,教授・学習過程のなかで,子供たち相互のあいだに多様な考えや意見が出され,それらが対立し矛盾するという場面が現れ,そのような過程をへて子供の考え方・見方が変わり,豊かになっていくことが求められる。集団思考は,子供一人ひとりの個性的な思考と,集団のなかでのそれらの対立・共感・統一ということの交互転換によって,子供たちの認識がより一層深化し,発展していくことをめざしている。

 集団思考のもとでは,子供たちは,自分の生活経験や既有の知識や技能を総動員して共通の学習課題に能動的に取り組み,そこで得られた認識や論拠でもって学級の仲間に働きかけ,自分の認識と仲間・他者の認識との違いを明らかにし,知的に競い合い,より高い認識を認め合うことによって,自分の認識をより豊かなもの,より確かなものとしていくという学習活動を主体的に行うのである。このことは,〈わからない〉子供がわかるようになり,〈知っている〉と思っている子供が真に〈わかっていく〉という,学級の子供全員の学習と学力を保障していくための集団的・協同的な学習活動でもある。

 教授・学習過程としての授業をこのような集団思考の過程として組織していくこともまた,教師の教授活動・教授行為の必要不可欠なはたらきとしてとらえられなくてはならない。この点で,教師に求められる任務は,とりわけ次の二つのことであるといえよう。

 一つは,授業の基礎的単位集団である学級を,自主・共同の学習体制をもった集団へ,つまり学習集団へと高め,発展させていくことである。学習集団の指導とは,子供たちの人間的な交わりの土台としての学級集団をつくり出し,子供たちを,共同で学習する主体に育てていくことにほかならない。二つには,授業の前に,また授業のなかででも,子供たちの発言や応答を予想しての教材解釈を行い,それにもとづいた〈発問〉を研究・工夫することである。子供たちが学習主体として学習対象に積極的にかかわり,子供たちの思考に分化と対立を惹きおこす優れた発問づくりが,教師の重要な教授活動として求められるのである。教授・学習過程における集団思考の組織は,子供が科学的な知識や認識を〈わがもの〉として修得することへの途を開くだけでなく,それが科学的な確信ともなり,それと並行して子供たちのあいだに相互尊重の民主的な態度や連帯感などが育成されていくのである。教授・学習過程は子供たちの民主的な人格形成の過程でもあるといえよう。

〔参考文献〕 L.クリングベルグ著・佐藤正夫監訳『現代教授学の理論』1978,明治図書

吉本均編『教授学重要用語300の基礎知識』1981,明治図書