●僑郡・僑県 きょうぐん・きょうけん
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西晋末の永嘉の乱を契機として南下した多数の華北漢人が,東晋以降江南地方に北方の本貫地の名をとってたてた郡県。当時20州のうち半ばの州の人々が流寓戸となって江南各地に流移した。東晋朝は彼らを江南の一般民の戸籍である黄籍とは別に白籍という戸籍に登戴し,そこに本郡を注記した。さらにこれら僑人のために僑州・僑郡・僑県をたて,華北から南下した有力豪族に統率させた。流寓戸が最も集中した地域は今の鎮江市付近の旧晋陵郡周辺で,ここには最大の僑州である南徐州やエン※注1※州・青州などが置かれた。東晋朝では咸和中(326〜334)と341年(咸康7),364年(興寧7),413年(義煕9)の4回にわたって土断政策がとられているが,413年の義煕土断では〈徐・エン※注1※・青三州の民で晋陵に居る者を土断の例から除外し〉,また,南朝でも502年(天監1)に〈南除州の諸僑郡を土断し〉ているように,旧晋陵郡地域の僑郡県と流寓戸は東晋・南朝を通じて大きな政治問題であった。僑州郡県の設置は,一般に北人の懐旧の念より出たものと理解されているが,なかには華北流民軍の組織であったり,北人の政治的優越性を保持する意図をもつものがあり,またその実態も,南徐州の南東海郡・南琅邪郡のように実際の郡域がある僑郡を除き,大部分は無実土僑郡県である。その統属関係も実州に属するもの,僑州に実郡県が属するものなどがある。揚州准南郡の属県である義成の場合は,荊州の襄陽に僑置された部曲軍団である。さらにまた白籍廃止後の489年にも,准陰地域に新たに旧エン※注1※州管内の東平郡が僑立されており,僑郡・僑県は南朝末まで存続した。実土のない僑州郡県は,その具体的イメージが明確でないが,僑州郡県の行政系統・実態・その機能は未解明な点が多い。〔参考文献〕洪亮吉『東晋疆域志』
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