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●侠客 きょうかく

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 侠客とは仁侠を行う人を意味する。「仁侠」の社会的性格を明らかにするためには,この語が使われ始めた古代中国にさかのぼって考える必要がある。「任侠」もしくは「遊侠」は,そこでどのような社会的実体をさしていたであろうか。「侠」とは「夾」であり,単に「持つ」を意味した。「仁侠」の語に特定の歴史的意味を与えるものはむしろ「任」であり,それは「他人を責任をもって引き受ける」ことを意味した。つまり,自分の利害を無視して人のためにつくすことが「任」であり,また「仁侠」であった。仁侠という新しい規範が生まれたのは,新しい社会状況が発生したからである。それは春秋末期に始まり,戦国時代に最も盛んとなり,秦漢帝国の形成によって終わる。いわば変革の時期の規範なのである。春秋中葉までの中国を特徴づける貴族的氏族社会が解体の過程に入ったとき,伝統的秩序のさまざまの部分から遊民が放出された。彼らは宗族的血縁関係から切り離された人々であったから,血縁以外の新しい集団構成の原理をつくりだし,それに頼って生きてゆこうとした。その原理がすなわち仁侠であった。遊民集団は従来の生産関係の外にあり,土地から離れ,一定の生業をもたなかった。彼らが「遊侠」と呼ばれるのはそのためである。戦国時代に,広く「士」と呼ばれる人々がいたが,かれらもまた遊民を母胎として生まれたのである。戦国の四公子が数千人を養ったと伝えられる「食客」もこの士にほかならぬ。安定した秩序の消失した過渡期の社会において,かれらはただ自分の個人的才能をもって生きてゆかねばならぬ。「好勇ノ風」があったと記されているように,腕力の強さが第一に頼りになったであろう。だが,弁舌一つをもとでに活躍した者も少なくなかったはずで,そのとき「侠」と「儒」とが意外に近い距離にあることがわかる。戦国の動乱を終わらせ,“帝国”という新秩序をつくりだすための理論的基礎をきずいた韓非子は,侠と儒の両方を非難して〈儒ハ文ヲ以テ法ヲ乱シ,侠ハ武ヲ以テ禁ヲ犯ス〉と書いた。帝国体制の確立はそれなりに社会を安定させ,遊民の存在に対応する規範であった仁侠はその基盤を失った。遊侠の倫理と行動とを高く評価した司馬遷(『史記遊侠列伝』)とは正反対に,後漢の班固は〈匹夫ノ細ヲモツテ殺生ノ権ヲ竊(ぬす)ム〉罪人としてこれを記述している(『漢書遊侠列伝』)。韓非子によって開発された法家思想の上に立つ帝国であるのだから,仁侠の罪悪視は当然であった。日本社会における仁侠や遊侠も,また歴史の転換期に現れ,秩序を一時的に代行する側面をもった。一般には,江戸時代初期(寛永〜元禄ごろ),江戸や上方(かみがた)で仲間を組んでのし歩き,けんか・ばくちを事とした旗本奴(はたもとやっこ)・町奴の徒を「侠」の名で呼ぶことが多い。かれらも仲間に対してはよく約束を守り,困っている者は助けるなど,古代中国の仁侠との精神の連続を思わせる。有名な幡随院(ばんずいいん)長兵衛は人入れ(ひといれ・人夫周旋業)であった。つまり,新しい首都となるべき江戸の町の建設現場で働こうとして,諸国から集ってくる雑多な人間集団を,組織し,保護を加え,あるいは取りしまるなど,秩序形成者としての役割をも担っていたのである。そのような生産的側面だけを捨象して劇化するとき,歌舞伎・講談・浪曲などの「侠客」像が出現する。“官”が社会の秩序をその手に取りあげる時期が訪れると,仁侠は徐々に公的分野から追放され,ばくち打ちや犯罪者の社会に限定されるようになり,当然堕落が始まるであろう。