●九品中正制度 きゅうひんちゅうせいせいど
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中国,三国魏から隋初まで行われた官吏登用制度。地方に中正という官を置いて人材を9品に分けて推薦させ官吏に任用する制度で,結果的に貴族制を支えることになった。九品官人法ともいう。漢代の郷挙里選は,地方長官らが郷里社会の評判(世論)にもとづいて毎年一定数の人材を推薦する制度であったが,郷里社会がしだいに崩れていったことや後漢中期以降の外戚・宦官の専横によって正常に運用されなくなり,後漢末の争乱で混乱をきわめた。そこで,郷挙里選を受け継ぎながら新しい制度として登場したのが九品中正制度である。この制度は,魏の曹丕(文帝)が後漢の献帝に迫って帝位につく直前,後漢の官僚を魏の新政府に吸収するための人物審査を当面の目的として,220年(黄初1)陳群の建議により実施され,そのあともひきつづき一般に官吏を登用するのに用いられた。まず,政府の官職を1品から9品までの等級(官品という)に分けて九品官制をしき,漢代に行われた俸禄高による等級に代えた。一方,地方の郡に中正という専門の官を置き,その地方出身の現任官の資格審査をまかせるとともに任官候補者の推薦をゆだね,地方の世論をもとに徳行才能を調査し,その才徳によって1品から9品までの等級(郷品という)に分けて中央の吏部に報告させた。その場合につくられる内申書には品(郷品)と状と家世が記された。状は徳行才能を簡単に示したもので,家世は家柄で,はじめ父祖の官名を記す程度であったらしいが貴族制の発達とともにとくに重視されるようになる。政府はこの報告をもとに郷品に対応する官品の官職に任用したが,郷品から4等下がった官品から出仕し(起家という),最終的に郷品と同じ等級の官品まで昇進するのが原則であった。郷品は,その人物が将来その官品まで昇りうるという資格を認定したものといえる。
この制度はもともと悪質官僚を抑制し,情実に左右されず個人の才徳に応じて登用することをねらいとしたのであるが,地方の世論が豪族社会の世論にほかならなかったうえに,地方の有力者が中正に任じられたため,郷品決定にさいして同僚や高官となれあってその子弟が厚遇されるようになった。とくに249年に司馬懿(しばい)が広汎な地域に郷品授与権をもつ州大中正を設置して政府高官に兼職させて以来,偏向が著しくなった。晋代には,その子弟の郷品が代々2品以下には下らないという家柄が生じ,門地二品の家と称されるようになった。こうして豪族の上層部が高位高官を独占し,晋の劉毅が〈上品に寒門なく,下品に勢族なし〉とその弊害を指摘したような状態が深化したのである。やがて門地二品の貴族が増えると,そのなかでも起家のとき6品官のどの官に任用されるかで差がつき,秘書郎で起家する王氏や謝氏などの一流貴族と,そうでない貴族とに分かれた。こうして制度が形式化して家柄で固定され,貴族層に有利に運用され,南朝の宋・斉時代には貴族制の全盛期を迎えたのである。
しかし,梁では九品官制を改正して貴族制との調整をはかるとともに,一方で学館での試験を行ったり,個人の才能を重視する秀才・孝廉の制を復活させるようになり,陳では任子の制を復活させた。北朝でも,北魏の孝文帝が華化政策の一環として九品官制を整えて家格を査定する一方,秀才・孝廉制度を奨励し,北斉はこれに試験制度を徐々に導入した。隋にいたって,秀才・孝廉(のちの明経)に進士を加えた科挙制度が成立し,九品中正制度は廃止され,隋の中国統一によって南朝貴族制も打破されたのである。なお,九品官制は,それと関係なく後世まで続いた。
〔参考文献〕宮崎市定『九品官人法の研究』1956,東洋史研究会(同朋舎)
堀敏一「九品中正制度の成立をめぐって」東洋文化研究所紀要45,1968